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『資本主義と不自由』/水野和夫

2014〜15年に東洋英和女学院大学大学院で行われた講義録をもとに構成された一冊。2014年の『資本主義の終焉と歴史の危機』とは時期が被っていることもあって、主張はほとんど同じだと言っていいだろう。要は、「すべての人が豊かになれる資本主義」なるものは幻想に過ぎない、という話である。

限界収益逓減とゼロ金利の時代に突入したいま、経済は定常状態に近づきつつあり、資本主義が前提としてきた「成長」というドライブは、もはや機能不全に陥っている。つまり私たちは、旧来のシステムが壊れつつある「過渡期」に生きているのだ、と水野は言う。

本書のタイトルに含まれる「不自由」という言葉が意味するのものも、このあたりにあるのかもしれない。それは「成長」を唯一の価値としてひたすらに追求する資本主義の論理を内面化し、いつの間にかその枠組みのなかから抜け出せなくなっている私たちの姿を指し示しているのだ。以下では、水野の議論のなかから、搾取によってなされてきた「成長」の限界と、「帝国」化しつつある世界像について取り上げ、「過渡期」という課題をどのように捉えるべきか、簡単にノートを取っていく。

搾取による「成長」の限界

資本主義における「成長」といえば、技術革新と生産性の向上、資本蓄積と再投資、市場の拡大、労働力や資源の効率的配分などといったことが要素として挙げられるだろうけれど、結局のところそれらはきわめてシンプルな商業の基本原理、「安く仕入れて高く売る」ことに依拠している。この構造をグローバルなスケールで展開すれば、必然的に「中心」と「周辺」が生まれ、発展途上国は常に搾取される側に置かれることになる。

水野は、原油をめぐる歴史を例に挙げてみせる。20世紀後半、西側資本は石油メジャーを通じて価格決定権を握り続け、1バレル2ドルという水準を何十年も維持し続けてきた。しかし1973年、第四次中東戦争を契機にOPECが原油価格を引き上げる。これは先進国にとっては「オイルショック」と呼ばれる、近代の成長の根幹を揺るがす事態になったわけだけれど、産油国側からすれば、長年の搾取構造に風穴を開け、経済的主権を回復するための政治的決断だったと言うことができるだろう。

つまり、本来需要の増大とともに値上がりするはずなのにそれが起こらず、どれだけ需要が増えてもエネルギーは上がらないという異常事態が、近代の常識になっていた。近代の成長は、この例外の上に成り立っていた、ということなのです。(p.130)

原油の「例外的な安さ」という搾取構造の上に成り立っていたのが、先進国の高度経済成長だったということだ。水野は、「第三世界の国が成長しなかったから、先進国が成長できたと言ってもいいかもしれません」(p.132)とまで述べている。

このような「例外」を失ってしまえば、「成長」し続けることはできなくなる。すると、「中心」はさらなる「周辺」から富を集めようとする。そうして外部を求め続けるなかで唱導されてきたのがグローバリズムだったわけだ。

とはいえ、いまや地球全体を取り込み、さらにはテクノロジーによる金融経済をも取り込んだ資本主義に、これ以上の外部というのはもはや存在しない。永続的な資本主義はもはや成立しえず、今後は「成長なき社会」に備えていかねばならないだろう、と水野は語る。

国民国家から「帝国」へ

本書の後半では、資本主義の行き詰まりに続く未来像として、「帝国」化する世界が語られる。この「帝国」とは、ウォーラーステイン言うところの「覇権国家」とは異なる概念だ。「覇権国家」は、あくまでも国民国家の枠組みを前提としながら、外交的に他国へと影響を及ぼす存在であるのに対し、「帝国」は外交のみならず、内政にまで介入する超国家的構造を持つものだという。

では、なぜ「帝国」化が進むのか。その背景には、資本や情報、労働力の流動性が極端に高まった現代において、従来の国民国家の枠組みが対応しきれなくなっているという事情がある。通貨危機やグローバル金融危機、パンデミック、テロといった「越境的な危機」は、個々の国家ではもはやコントロール不能な規模となっている。そうした状況下におけるより強力な統治システムとして、国民国家の外側にある「帝国」的な枠組みが浮上してきた、というわけだ。

水野は、日本がアメリカの年次改革要望書に沿って政策を展開していることや、EUがギリシャ議会の決定を拒絶した事例を取り上げ、これらはすでに、主権国家の形式を保ちながらも、実質的に「帝国」が機能していることの証左として読むことができるだろう、と言う。

また、グローバリゼーションや新自由主義も、こうした帝国的秩序を支えるイデオロギー装置として機能している。ヒト・モノ・カネが自由に行き交う世界と言えば聞こえはいいけれど、実際には「中心」に富を集中させるための構造に他ならない、というのが水野の見立てだといえるだろう。

「過渡期」を軟着陸するために

水野の言葉には、「成長」という呪縛から解放されることで、別の豊かさの形を模索することができるのではないか、と示唆するようなところがある。が、本書のなかで、そのために私たちがどう振る舞うべきか、といった具体的な処方箋が提示されているわけではない。

まあ、私たちにとって常識とされていたり自明とされている社会の仕組みの多くが、じつは単なる歴史的偶然の産物であったり、別の形でもあり得た、と知ること、そしてそれを繰り返し語り続けること、それ自体は重要なことではあるだろう。

誰もが、日々の生活のなかで「成長」の名のもとに「不自由」を強いられている、と感じたことがあるはずだが、それは個人の感覚であるのと同時に、システムの問題でもある。水野が描く「過渡期」を生きる私たちに必要なのは、そのように与えられた枠組みを常に疑いながら、新たな価値観を模索していく姿勢だ、と言うことはできるだろう。

近代という時代がもう限界に近づいていて、変化を余儀なくされています。近代を引き継ぐ、次なるシステムがすぐに用意されるということはあり得ません。古代ローマから中世にいたるまでも三〇〇年、中世から近代への移行には二〇〇年くらいの時間を費やしている。今できることは、近代がもし終わっていて、次のフェーズに行くならば、近代の悪いところを是正していくしかない。租税回避にはNOを突きつけ、マイナス金利になったら、設備投資減税などは廃していかなければならない。そういう細かいことを実行しつつ、新しいシステムが生まれるまでの過渡期を軟着陸しながらやっていくしかないのです。(p.229-230)

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