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『リベラルアーツの学び方』/瀬木比呂志

リベラルアーツの学び方 (ディスカヴァー・レボリューションズ)

リベラルアーツの学び方 (ディスカヴァー・レボリューションズ)

  • 作者:瀬木比呂志
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2015/05/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
東京地裁、最高裁の元裁判官であり法学者である著者による、リベラルアーツ指南本。世のなかに大量に流布しているリベラルアーツ本、教養本の書き手たちと同様、瀬木も、実践的な意味における生きた教養としてのリベラルアーツを学ぶことの意味は、いまなお、というか、いまでこそ大きい、と言う。さまざまな書物や作品と真摯に向き合い、そこから得られる知恵から帰納的に思考していくことで、自分の頭でかんがえ、自分なりの思想を形作っていくための基盤を手に入れることができるだろうから、というのがその理由だ。

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リベラルアーツを学ぶにあたって、瀬木がとくに重要視しているのは、「批評的・構造的なものの見方を学ぶ」ということだ。というのも、日本人はだいたいにおいて、「べったりリアリズム」に基づく印象批評――自己と世界や他者とを明確に区別せず、自分の経験や印象を感情的に一般化しようとしてしまう――に流されがちで、「自己の思考がみずからの立場や利害に影響されていることを意識した上で、それによる補正を行いつつ自分の議論を組み立てる能力」が低いからだ、という。

それを助長しているのが、日本人の「本音と建前」文化だ、と瀬木は続ける。人前では、一般に正しいとされるであろうことを「建前」として述べつつも、その裏には自分の感情むき出しの「本音」が存在している、というものだが、これはつまり、自分の「本音」と他人や社会とを接続するためのロジックをかんがえ、その精度をきちんと高めていこうとするような努力を行わず、テンプレート的な回答であるところの「建前」に頼ってその場をやり過ごしてばかりいる、そういう傾向が日本人には多いのではないか、ということだ。

多くの人は、きちんと自分のなかで腹落ちし、他人に向かって説明できるようなレベルで思考をしていない。だから、本当は何のロジックも持っていないくせに、他人に対しては自分の本心とは異なることを「建前」として平然と述べ、しかもそのことに自分自身でも無自覚、無頓着である、ということになってしまう。当然、その人の発言は客観性、説得力がなくなり、信頼性がなくなる、そして議論すること自体が無意味になる…ということになってしまうわけだ。このあたりが、日本人の弱点、日本人が批評的なものの見方を苦手とし、かつ、単純な印象に流されてしまう理由のひとつだろう、と瀬木は述べている。

世界のあり方が大きく変わったにもかかわらず、日本が、また僕たち日本人が、これまでの古い枠組み、たとえば、「東大をはじめとする官学(権力が正統として認め、統治や支配のよりどころとした学問)的な学風の強い大学で、行政・司法官僚を養成し、彼らに民間を指導させる」といった、明治時代以来推し進め、先の大戦における敗戦で仕切り直しと修正を行いながらもその基本は変えてこなかった枠組みに固執していることの問題も、大きいと思います。
このような枠組みでは、官僚の劣化がそのまま国家や社会の劣化を招き、また、人々が自分で考え、決断する力も育たない。そのことが明らかになってきているのに、誰もその枠組みを作り替えられないでいるのが、現在の日本だと考えます。
(p.7-8)

個々の日本人が自分の力で考えなければ、自分自身の人生を主体的に切り開いてゆくことも、企業等の集団、あるいは社会や国家の、新たな、そして自由でより豊かな枠組みを作ってゆくことも、難しいでしょう。 そのような意味で、考える方法や感じる方法の生きた蓄積であるリベラルアーツは、個々人みずからが考え、発想し、自分の道を切り開いてゆくための基盤として、まず第一に必要とされるものではないかと思います。(p.9)

現在の日本のように、政治家や官僚や財界の上層によって定めれられた枠組みを所与のものとしてたやすく受け入れてしまっているようでは、何も変えることはできないし、何も変えることができなければ、絶えず変化し続けていくこれからの世界を生き抜いていくことなどできはしない。だからこそ、個々の日本人が自分の頭でかんがえ、主体的に動いていく力、枠組みを自ら作り変えていく力を得ることが必要で、そのためにはリベラルアーツが重要だ、というのが瀬木の主張ということになるだろう。

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本書で学ぶべき対象として具体的に取り上げられている本や作品は、自然科学、人文科学、ノンフィクション、文学、映画、音楽、漫画など、かなり幅広い。ただ、どの一冊、一作品についても、瀬木自身のフィルタを通したときに、どんな風に捉えられ、それらの中にどんな横断的共通性を見い出すことができるのか、ということが書かれているから――言ってみれば、著者の偏見が入り込むのを恐れずに書かれているから――教科書的なブックガイド、作品ガイドに留まらない、しっかりと熱を帯びたものになっている。