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『ファイト・クラブ』/チャック・パラニューク

ファイト・クラブ〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

ファイト・クラブ〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

パラニュークの96年作。デヴィッド・フィンチャーの映画の方はだいぶ以前に見たけれど、最近いくつか読んでいたミニマリズム関連の本で本書がたびたび引用されていることもあり、原作も読んでみることにした。エリートビジネスマンの主人公は「完全で完璧な人生」を送っていたはずだったが、機械的な仕事ばかりが続く自らの生にリアリティを感じられなくなり、不眠症と自己破壊的な願望とに悩まされるようになる。ある日、そんな彼の前にタイラー・ダーデンと名乗る、自分とはまったく正反対のワイルド極まりない男が現れ、ふたりはすぐに友人となる。やがてタイラーは、「ファイト・クラブ」なる、男同士が一対一で本気の殴り合いをする地下クラブを運営し始める。主人公は、殴り合いのリアルな痛みのなかで、生の実感を取り戻すことができたようにおもうのだが…!

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都甲幸治は「解説」で、本作が突きつけてくるのは、「周りの人たちのいうことを聞いて育ち、仕事をし、金を稼ぎ、ものを買う。それは一体誰の人生を生きていることになるのか」という問いだと書いている。

パラニュークは言う。「我々は良い人間になるように育てられました。だからこそ、僕らの子供時代のほとんどは周囲の期待に応えることばかりに費やされてしまいます。両親や教師やコーチの期待に応え、そして上司の期待に応える。こうして我々はどうして生きていくかを知るために、自分の外側ばかりを見ているんです」(p.317)

わたしたちの人生には、親や、世間や、会社や、国などによって常にルールが与えられ、課せられる。法や道徳といった行動規範に従う「良い人間」、周囲の期待に応えられる人間になるよう育てられる。だが、そんな「自分の外側」から押しつけられたルールに従って生きることで、人は本当に満足を感じることができるのか?生きていると心から感じられるのか??

家柄、肩書、学歴、財産、収入、地位、名声、理想のライフスタイル…一般に重要だと見なされているそういったものは、社会の、世間の、他人の、つまり「自分の外側」の価値観だ。いくら金があってもモノがあっても、そのようなこの社会で価値が高いとされているものごとにとらわれているということは、ある意味、社会の都合のよい生き方を強いられていることに他ならない。過激な言い方をすれば、社会に洗脳されている状態、社会の奴隷になっている状態だ。それでは本当に自分の人生を生きていることにはならない。必要なのは、自分でルールを作り、自分でルールを選び取る、そういった自己決定なのではないか…!

…とまあ、このようなところが、『ファイト・クラブ』を批評・解説しようとしたときに出てくる言説の定番だといえるだろう。消費資本主義の論理に抵抗しようとするミニマリズム的な生き方と本書との親和性が高い所以でもある。

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とはいえ、実際のところ『ファイト・クラブ』の物語は、まさに上記の自己決定――「自分の外側」の、他者の欲望の奴隷にならずに、自分の頭でかんがえて行動しろ!――の困難さ、不可能性をこそ描いたものであるようにも感じられる。なにしろ、主人公である語り手は、物語の最後の段階に至るまで自己決定を行うことなどできず、ひたすら他者に振り回され続けるばかりであって、ようやく本当の自己決定を下すことに成功した瞬間には、この世での生を終えることになってしまうのだから。

主人公の別人格であり、影であり、分身ともいえるタイラー・ダーデンは、既存の社会の価値観、既成の枠組みを疑い、嫌悪し、それらの破壊とそこからの脱出を呼びかける存在である。主人公は、この自らの無意識が描き出した理想像、自分にはまずできそうにないことを平然とやってのける反社会的なアイコンに魅了され、それまで抱いていた消費資本主義的な価値観とすぐさま決別する。そして、タイラーのことを師と仰ぎ、彼に付き従うようになる。「ファイト・クラブ」で殴り合ったり、きわどいビジネスをしたり、命がけのゲームをしたり、さまざまなテロ行為を行ったり…物語の終盤に至るまで、主人公の行動はタイラーによってほぼ完全に支配されている。言ってみれば、この段階では、彼は単に信じる相手を変えただけ、消費資本主義という宗教からタイラー・ダーデンという別の宗教に乗り換えたに過ぎないのだ。

(タイラーは主人の内部の存在であるのだから、タイラーによる決定とは事実上、主人公の決定と同じことなのではないか?というかんがえ方もあるかもしれない。だが、実際のところ、主人公はタイラーの振る舞いに常に振り回され、葛藤させられている。それはつまり、自分の内にある強力な欲望、衝動をコントロールできていない、ということだ。自分の内的衝動をまったくコントロールできていない状態では、自分の頭でかんがえて、自己決定ができていると言うことはできないだろう。)

北欧家具からぼくを救い出してくれ。
気の利いたアートからぼくを救い出してくれ。/
助けてくれ、タイラー。完璧で完全な人生からぼくを救ってくれ。(p.61)

「ぼくは肉体が持つ力や所有物に対する執着を断とうとしています」とタイラーはささやいた。「なぜなら、自己破壊を通してのみ、ぼくの精神のより大きな力を見出すことが可能だからです」(p.155-156)

男らしさの権化であり、自らの理想へといっさい迷うことなく突き進んでいくタイラー・ダーデンには、誰もがおもわず憧れてしまうような格好よさがある。だが、その行動の行き着く先はといえば、文明を破壊し尽くし、その塵のなかから再生する…というカルト的な信条をもとにした、破壊と暴力、悪ふざけと混乱に満ちた世界でしかなかった。そして、主人公は最後の段階でそれに反旗を翻し、自らの命と引き換えにすることで、ようやく自分の欲望と思考のコントロール権を取り戻すことに成功するのだ。まったく、真に自己決定しながらこの世界で生きていくということは、かくも難しいものであることよ…とおもわざるを得ない。