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『資本主義の終焉と歴史の危機』/水野和夫

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

まず水野は、タイトルの通り、資本主義システムの行き詰まりはもう目前にまで迫ってきている、と述べる。その理由として上げられるのが、先進各国で続いている超低金利状態だ。たとえば日本では、2.0%以下の超低金利がもう20年近く続いているわけだけれど、利子率(金利)=資本利潤率とかんがえれば、利子率が極端に低い=資本を投下することで得られる利潤が極端に少ない→資本主義は機能不全になっている、という風に理解するべきだろう、ということだ。

続いて水野は、現代と同じように超低金利状態が続いていた16世紀末〜17世紀初頭のイタリアを例に挙げ、このときに起こった「利子率革命」と同じような大きな変化、社会制度の大変動がこれから訪れるだろう…と予想してみせる。16世紀末に起こったのは、「海洋」、「新大陸」という、既存の秩序の「外部」空間の発見と、それにともなう世界の覇権の移行(スペイン→イギリス)である。この際、政治経済システムや思想など、それまで所与のものとされていたルールの多くに革命的な変更が加えられたわけだ。

ただ、21世紀に生きる私たちの世界には、「利子率革命」のころのような物理的、地理的な「外部」は残されていない。現時点で、物理的な「外部」の代わりに利用されているのは、グローバリゼーションという「中心」と「周辺」とを結びつけ、組み替えていくイデオロギーだ。BRICSが「周辺」ではなく「中心」として機能し始めている今、旧来の「南側諸国」の代わりに新たな「周辺」として扱われ始めているのは、たとえば、アメリカのサブプライム層や、EUのギリシャやキプロス、日本の非正規労働者といった面々である。

また、70年代以降、非物理的な「電子・金融空間」の創出によって、大きな利潤獲得のチャンスが目論まれてきたわけだけれど、ITバブル→住宅バブル→リーマンショックという一連の流れからも明らかなように、これも結局はバブルの生成と崩壊とを繰り返すだけのものだと言えるだろう…と水野は述べている。バブルというのは、その過程において上位1%に富が集中し、崩壊時の賃下げやリストラによって貧困層が増大する(その際、巨大金融機関は公的資金によって救済される)ものなわけで、このように足掻くことしかできなくなった資本主義というシステムは、いまや死に体であるとかんがえるべきだろう、ということだ。端的には、「外部」が存在しなくなった世界において、永続的な資本主義は不可能である、というのが水野の主張である。

バブル崩壊は結局、バブル期に伸びた成長分を打ち消す信用収縮をもたらします。その信用収縮を回復させるために、再び「成長」を目指して金融緩和や財政出動といった政策を総動員する。つまり、過剰な金融緩和と財政出動をおこない、そのマネーがまた投機マネーとなってバブルを引き起こす。先進国の国内市場や海外市場はもはや飽和状態に達しているため、資産や金融でバブルを起こすことでしか成長できなくなったということです。(p.52)

二〇〇一年の九・一一(アメリカ同時多発テロ)、二〇〇八年の九・一五(リーマン・ショック)、そして二〇一一年の三・一一(東京電力福島第一原発事故)はまさに近代を強化しようとして、反近代、すなわちデフレ、経済の収縮を引き起こした象徴だと言えます。(p.53)

資本主義が地球を覆い尽くすということは、地球上のどの場所においても、もはや投資に対してリターンが見込めなくなることを意味します。すなわち地球上が現在の日本のように、ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレになるということです。(p.173)

もはや地球上に「周辺」はなく、無理やり「周辺」を求めれば、中産階級を没落させ、民主主義の土壌を腐敗させることにしかならない資本主義は、静かに終末期に入ってもらうべきでしょう。(p.208)

ただ、水野の発想のおもしろいところはここからだ。この機能不全、行き詰まりを単なる悪として、受け入れがたいものとして捉えるのではなく、新システム発生のための与件として捉えてみよう、というのだ。デフレや超低金利というのは資本主義が成熟しきったことの証拠なのだから、それをどうにか解消して引き続き成長を目指しましょうというのではなく、現状を受け入れて、成長神話とはまた別の方向へと進んでいくことができるだろうし、またそうする必要があるだろう、というわけだ。

もちろん、新たなシステムが生み出されるまでにはまだまだ長い時間が必要だろう。だからこそ、その間は、「社会保障も含めてゼロ成長でも維持可能な財政制度」を設計し、資本主義をソフトランディングさせるための準備をしていかなくてはならない、と水野は述べている。

資本主義を乗り越えるために日本がすべきことは、景気優先の成長主義から出して、新しいシステムを構築することです。新しいシステムの具体像がみえないとき、財政でなすべきことは均衡させておくことです。実際に新しいシステムの方向性がみえてきたときに、巨額の赤字を抱えていたのでは、次の一歩が踏み出せないからです。それは単に増税・歳出カットで財政均衡を図ればいいということではなく、社会保障も含めてゼロ成長でも持続可能な財政制度を設計しなければいけない、ということです。(p.134)

利子率、利潤率がゼロ、すなわち経済成長があらゆる点でゼロという状態で社会を回していくなどということがはたして可能なのか。というか、そのような社会的合意の形成はどのようにして可能なのか、という問題は残る。水野の主張としては、そもそも16世紀以前はゼロ成長の社会だったのだし、経済成長がなければ社会は回っていかない、という思考自体を変更し、新たなパラダイムを構築していなくてはならない、ということなのだが…。