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『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 』/木澤佐登志

ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)

  • 作者:木澤 佐登志
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/05/26
  • メディア: 新書

新反動主義(暗黒啓蒙)と呼ばれる、なんともキナ臭い思想的ムーブメントの概要と、それが形成されるに至った流れについてまとめられた一冊。ペイパル共同創業者のピーター・ティール、Tlon経営者のカーティス・ヤーヴィン、哲学者のニック・ランドという三人に焦点を絞って、この思想がどのようにして生まれ、どのような影響を与えてきたのかが書かれている。以下簡単にノートを取っておく。

新反動主義の思想の土台には、リバタリアニズム的な思想があるらしい。リバタリアニズムとは、端的に言えば、「自己所有権」――自分の身体と、それが所有するものに対する絶対的な所有権。すべての人間に不可侵の自然権として与えられている――という概念を基に、個人の自由を最大限に尊重する思想である。いわゆるリベラルな左派と違って、人格的な自由に加えて、経済的な自由についても希求するところが特徴だ。経済への公権力の介入や、財の平等な再配分などといったことは、リバタリアニズムとは相容れない。

ではリバタリアンと新反動主義者とで何が異なっているのかというと、それは政治に対するスタンスということであるようだ。かつてのリバタリアンは、自由は政治を通してのみ達成可能なものとかんがえていたが、新反動主義者にとっての自由とは、もはやそういった類のものではない。2008年の金融恐慌でも明らかになったように、国家の介入による金融政策などといったものはすでに破綻しているし、その破綻の補填のためにさらなる介入を行うなど、間違いでしかない。そもそも、1930年代のニューディール政策〜社会民主主義的な政策からして、方向性に問題があったのだ、というのが彼らの主張である。

そういうわけで、ピーター・ティールは2009年の時点で、「自由と民主主義はもはや両立しない」と述べ、カーティス・ヤーヴィンはそのアイデアを「自由にとって民主主義は悪である」というところまで推し進めた。そして、ニック・ランドはヤーヴィンの思想を「暗黒啓蒙」として体系的にまとめ上げ、民主主義――ランドが述べるところの「ヴォイス」――からの「イグジット」を目指すべきだ、と書いた。

己の所有権を極度に重要視する新反動主義者は、いわゆる近代の啓蒙がもたらしたとされる「平等」や「国家」といった概念は、もはや「自由」と「個人」にとっては足枷でしかない、とかんがえる。ピーター・ティールは、「私たちの時代におけるリバタリアンの重要な使命は、そのあらゆる形態における政治から逃走する道をみつけることだ」と語り、ランド/ヤーヴィンは、彼らが「普遍主義」と呼ぶ民主主義的イデオロギー(進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、人類の生物学的平等性、ポリティカル・コレクトネスetc.)を繰り返し批判した上で、民主主義に代わるオルタナティブな国家形態――独立した多数の少都市国家、企業国家のようなもの――を模索する。彼らにとって国家民主主義とは、愚かな大衆が好き勝手に声を挙げるためのシステムでしかなく、それはあらかじめ崩壊が定められているものなのだ。また、そういった前提の上で、テクノロジーの発達は社会や人間観を根本的に変革するだろう、といった加速主義的な主張を行ったり、シンギュラリティの到来によって、超知性的な人工知能による支配がなされるようになるだろう、とかもはや若干やけくそ気味にもおもえるようなことを語ったりもする。

まあ単純に言ってしまえば、新反動主義というのはいわゆる終末論的な思想だということになるだろう。自分の生きているうちに人類史上決定的な事象が発生し、既存の価値は失効し、革命的な大変動が起こるに違いない(たとえば、シンギュラリティのような)という発想にせよ、テクノロジーによって人間を超え、ニーチェ的な超人を目指そう、とでもいうようなかんがえにせよ、なんとも素朴というか感情的というか、カルト的でオカルト的、ニヒリスティックな思想だな…というのが個人的な感想である。

とはいえ、こういった思想がある一定の支持を得ていたり、各方面に影響を与えていたりすることをかんがえれば、それだけ未来があらかじめ失われている感というか、経済における分断が深刻化している、ということは確かなのだろう。昔から存在する反権威主義や能力主義、自由至上主義といったユートピア的な主張が、現代の格差とテクノロジーとを背景に、奇妙な変形を遂げていったものの一様態が新反動主義、ということなのかもしれない。