作品概要・所感
ロシアで生まれ、フランスで執筆したユダヤ人作家、イレーヌ・ネミロフスキーによるチェーホフ伝。第二次大戦勃発とほぼ同時に執筆着手されたという本書は、作家の生前に刊行されることはなく、彼女が収容所で殺害された後、戦後になってから刊行されたのだという。
危機的状況のなか、小説家があえて(小説ではなく)伝記を手がけたのは、精神的故郷たるロシアへのノスタルジアゆえだったのかもしれないし、チェーホフの人生を自身のロールモデルとして意識しようとしていたためなのかもしれない。本書が書かれた明確な動機は不明だけれど、戦時下にあえてチェーホフの生涯を辿り直し、書き留める必要があったのはなぜか、という問いそのものが、作品全体に緊張感を与えているのはたしかなことであるようにおもえる。
本書の構成はごくシンプルで、チェーホフの幼年期から死までを時系列に追いながら、印象的なエピソードやトピック、代表作について言及していく、というスタイルになっている。そのため、自分にとってまったく初めての情報というのはそう多くはなかったのだけれど、やはり小説家が書いた評伝というだけあって、全体的な文章の美しさや、同業者ならではの分析・洞察といったところが読みどころだといえるだろう。
人生には何の意味もない。が、人は自分の魂を練り直すことはできる
例えば、こんなところ。中篇小説作家としてのチェーホフの冷徹さについて。
もう彼の物語は、後に非難される明らかな冷たさ、超然とした態度に貫かれていた。それもジャンルの掟だった。中篇作者が登場人物を憐れんだりすれば、センチメンタルで馬鹿げたものになりかねない。また彼には各人物に愛着を抱く暇がないのかも知れない。長篇小説では、読者は一定の環境に入り込み、そこに身を浸し、それを愛するか、憎むかである。だが中篇小説は、知らない屋敷の、瞬間開いて直ぐまた閉じる半開きの扉である。医師、チェーホフを思わずにはいられない。彼が私たちに与えるのは、ジャーナリストの経験以上に医師の経験――弱さも、病的な憐れみもなく、しかし深い思いやりがこもった正確な診断なのだ。(p.85)
チェーホフの作品を論じるときに、彼の医師としてのキャリアが持ち出されることは多いけれど、「弱さも、病的な憐れみもなく、しかし深い思いやりがこもった正確な診断」というのは、なかなかしっくりくる表現ではないかとおもう。
あるいは、死を目前にしたチェーホフ自身についての描写。
彼は全力を揮って静穏、恬淡であろうとした。容易ではなかった。戯曲と本の成功、妻、健康、人生、彼には多くのことに拘りがあった。全てが彼から奪われてゆくだろう、少しずつ。 彼は書斎の中で横たわっていた。熱があり、ため息をついた。 “死ぬまでの間生きる、それはそんなにおかしくない。だが早々に死ぬと分かりながら生きる、それはまるで馬鹿な……” 人生には何の意味もない。少なくとも、人間がそれを見出すことはできない。それは人智を超えている。人間が力を持つのは、ただ自分自身、自分の魂にだけだ。忍耐、礼節、尊厳、冷静さの力で、人が自分の魂を練り直すことはできる。チェーホフはおそらく、それだけを固く信じていた。(p.174)
俺自身、チェーホフを読んでいていちばんぐっとくるのは、この、「人生には何の意味もない。少なくとも、人間がそれを見出すことはできない」と認識しつつ、しかし、そんな失意やメランコリーを抱えながらも、人は生きていなければならないのだ…という諦念の感覚、このあたりであるような気がしている。こういうことって、わかってはいるけれど、でも、何度だって繰り返し語って聞かせてほしいことではないだろうか。
