作品概要・所感
『トム・ソーヤの冒険』、『ハックルベリー・フィンの冒険』で知られるマーク・トウェインの晩年の作品。理想に燃える青年の素朴な人間信条を、ひとりの老人が徹底的にドライな人間観に基づく論理で叩き潰していくさまが、対話篇の形式で描かれていく。
訳者の中野好夫は、「あとがき」で、「著しく人間不信のペシミズムが色濃くなってくる」、「決定論的人間観に陥った」などと本作を評していたけれど、個人的にはそこまでペシミスティックな内容だとは感じなかった。どちらかと言えば、人間という存在の仕様について、誰もが口をつぐんでいたり濁したりしていたところを、身も蓋もなく淡々と暴きまくっている、という印象の方が強い。あからさまで、悪びれない感じというか。老人の言葉に無理やり前向きなメッセージを読み取る必要もないだろうが、逆に悲観し過ぎるほどの内容でもないのでは?とはおもったのだった。
人間は、自身の「心の慰め」を求めるだけの「機械」に過ぎない
老人はまず、人間は自ら何かを考え、創り出す存在ではなく、外的な力の作用によって動かされる「機械」に過ぎないと語る。どんな些細なことであっても、人間はその頭だけで発明することはできないし、善悪の区別にしたって、みんな外からの観念として知る他ない。(外から来ない思考、なるものを持っているのは、神々だけである。)
つまり、人間の頭ってものは、なに一つとして新しいものなんか考え出せるもんじゃない、そんな風にできてるんだよ。外から獲た材料を利用するだけの話なんて、要するに機械にしかすぎないんだよ。ただ自動機械みたいに運転するだけなんで、意志の力でうごいたりするんじゃない。自分で自分を支配する力なんか、もちろんないし、その所有主にだって命令する力はない。(p.18)どんな高尚な思考も、外部から得た材料をもとに、生まれ持った「気質」や後付けの「教育」というフィルターを通して処理した結果に過ぎない。自由意志などというものは幻想であって、人間はただ与えられた状況に適応して反応しているだけの存在である、ということだ。
そして、そのような存在たる人間を駆り立てる唯一の原動力というのは、「自分自身の心の満足感をえる」ことであり、それ以外には絶対にあり得ない、と老人は断言する。
結構、これがその法則だよ、よく憶えとくんだな。つまり、揺籃から墓場まで、人間って奴の行動ってのは、終始一貫、絶対にこの唯一最大の動機――すなわち、まず自分自身の安心感、心の慰めを求めるという以外には、絶対にありえんのだな。(p.31) 心の平安をしっかり握るためには、人間、どんなことだってやる。逆にまた、そうでない目的のためにはだな、誰がなんといおうと、何一つやらせることはできん。(p.36)人間が求めるものはまず何よりも「心の満足感」、「心の慰め」であって、だからこそ人間の行為は、もっとも多く自分自身の「心の満足感」が得られるであろう行為に決まっている、ということだ。そのため、人が他人のために何かをするのは、それが何よりもまず自分自身のためになるというはっきりした条件がある場合に限られる、ということになる。(もし他者の苦痛が自分を不快にさせないのであれば、人間はその他者の苦痛には完全に無関心でいられる。)
いわゆる文字通りの意味での自己犠牲などというものは存在し得ず、すべては「自己満足」という名の主情念(マスター・パッション)、「内なる主人」への奉仕に過ぎないのだ。
では、人間が「自己満足」のためにしか動かない「機械」であるとすれば、人はどのように生きるべきだ、と言うことができるのか?老人は、人類全体の向上プランとして、以下のような「理想」をいちおうは提示してみせる。
つまり、まず己自身のために善行をなせ、すれば、隣人もまた必ずその結果たる恩恵に浴するわけなんだからと、そんな風にまず考えて、大いに幸福感に浸ることだな。(p.105) せっせと君たちの理想を向上させるように努めることさ。そしてみずからがまず満足すると同時にだな、そうすれば、必ず君たちの隣人、そして社会をも益するはずだから、そうした行為に確信をもって最大の喜びが感じられるところまで、いまも言った理想をますます高く推し進めていくことだな。(p.105)他者のために善行をなすことが原理的に不可能であるのならば、では己自身のためにこそ善行をなせばよい。そうして善いことを成したときに得られる「自己満足」の喜びを高めていくことができれば、それが回り回って社会を益することになるだろう…というわけだ。
人間は「変わるべき存在」か、「決して変わらぬ存在」か
先日プラトンの『饗宴』について記事を書いたばかりなので、本作の人間観と比較してみるというのもおもしろそうだ。ざっくり考えてみると、以下のような感じだろうか。
プラトン『饗宴』(ソクラテス/ディオティマ): 不完全な人間は、エロス(美の欠乏)をエンジンにして、個別の肉体の美から抽象的な「美のイデア」へと階梯を登り、自己を超変容させていくべき存在である。
トウェイン『人間とは何か』(老人): 人間が「理想」を高く掲げようとするのも、結局はそれが自分にとって最も大きな「心の慰め」をもたらすからに過ぎない。どのような高みに登ったつもりでも、人間の欲求は常に自己の内側だけにある。
プラトンが、人間は「変わりゆくべき存在」だと考えていたとすれば、トウェインにとって人間は、「決して変わることなどできない存在」だった、と言えそうだ。
もっとも、両者ともに似ているのは、欠乏や欠落をこそ、人間の原動力だと見なしている点だろう。プラトンのエロスは欠乏している美を希求するものだし、『人間とは何か』の老人が言う「心の慰め」というのも、内部の欠落を埋めようという欲求だと考えることができる。そういう意味では、人間存在のあり方に関しては両者の認識はそう大きく違ってはいない、ということであるのかもしれない。
どちらもある種似たような人間理解をしつつ、しかしその結論としては真逆になっているわけで、そこがふたりのスタンスの違いを表しているということになるだろう。個人的には、トウェインの人間観は理解しやすく、取り立てて違和感もない感じ、逆にプラトンのイデア論は、納得できこそすれ、強引な理屈だなという感触を持ってはいるのだけれど…。
