作品概要・所感
前416年の春のこと、悲劇コンクールでアガトンが初優勝したことを祝う宴会の席で、各参加者が愛の神エロスを讃える演説を行おうということになった。若きパイドロス、アガトンの恋人パウサニアス、医師エリュキシマコス、喜劇詩人アリストファネス、そしてアガトン、とそれぞれがエロスのさまざまな面を賛美していく。
大トリを務めるソクラテスは、自分は「真実」のみを語ると宣言し、以前にマンティネイアの巫女ディオティマから聞いたというエロスの真実について語ってみせる。エロスはそもそもその出生からして神ではなく、ダイモンである。そしてそれは、美を体現するのではなく、美を希求する存在なのだ、と言うのだ。ソクラテスの話が終わるころ、酔っ払ったアルキビアデスが会場に乱入してくる。アルキビアデスはソクラテスがその場にいることに驚き、彼を賛美する演説をぶつのだった…!
プラトンをまともに読んだのは、たぶんこれが2冊目。対話篇なので読みやすいし、そんなに前提知識が求められるようなところもない作品なのだが、なんでこんなことを書いてるんだ?みたいな箇所も結構あったりして、なかなか考えさせられる読書だった。
エロスは美を欠いているからこそ欲求する
作品の構成としては、上記のあらすじのように、まずは5人によるエロス賛美の演説が描かれる。まあこれは、当時のさまざまなエロス観のバリエーションを提示した、というようなことなのだろう。ソフィスト的な相対主義的エロス解釈、と言ってみてもいいのかもしれない。
その後、ソクラテスが(ディオティマから聞いた話だけど…という形で)それらのエロス論を批判的に乗り越えていくというか、アウフヘーベンしていくような流れになる。
ディオティマの話によれば、エロスは、ペニア(窮乏)が、メティス(巧智の神)の子であるポロス(術作の神)と交わることで生まれた存在である。そのため、そもそもエロスは神ではなく、中間的な存在、神霊(ダイモーン)なのだという。
「だって貴方は認容なすったではありませんか、エロスは、善いものや美しいものを欠いていればこそ、まさにその欠いているものを欲求するのだ、と。」「実際認容しましたよ。」
「では美しいものにも、善いものにも全然与らぬ者がどうして神であるはずがありましょう?」
「けっしてそんなはずはないように思われます。」
「それ御覧なさい、貴方もエロスを神だとは思っていないのでしょう?」と彼女はいった。(p.113-114) 「ではいったい何ですか。」
「さっきもいったように、滅ぶべき者と滅びざる者との中間に在る者なのです。」
「では何ですか、ディオティマよ。」
「偉大な神霊(ダイモーン)なのです、ソクラテスよ。なぜなら、すべて神霊的な者は神的な者と滅ぶべき者との中間に在るからです。」
「ではどんな能力を持っているのです?」と私は訊いた。
「それは、人間から出たことを神々へ、また神々から来たことを人間へ通訳しかつ伝達するのです。すなわち一方からは祈願と犠牲とを、他方からは命令と報償とを、それはまた両者の中間に介在してその間隙を充たします。その結果万有は結合されて完き統一体となるのです(p.114) 他方彼は智慧と無知との中間にいるのです。それはこういうわけなのです。およそ神と名のつく者は愛智者(フィロソフォス)でもなく、また智者となることを願うというようなこともない(彼らはすでにそうなのですから)、その他誰でも智慧ある者はもはや智慧を愛求することをしないでしょう。しかし、他方、無知者もまた智慧を愛求することもなければ、また智者になりたいと願うこともないものです。(p.116-117)
人間とは、すべて善きものが自分自身のものとなることを常に望んでいるものだ。善きものを持つこと=幸福になることであり、それこそが人間の終局的な望みであるからだ。そのような人間にとって、中間的存在たるエロスは、「美に対する愛(p.108)」、「美を求める愛(p.117)」として働くものだということになる。
もっとも、たとえ美、善きものを手に入れたとしても、それは時の流れのなかで必ず失われてしまう。人間は死すべき存在だからである。そこで人間が欲するのは「生産」すること、「産出」すること、つまり新たなもの――それは子供でも、名声でも、作品でも、仕事でもあるだろう――を生み出すことだ。いわば不死を模倣し、少しでも不死に近づこうというわけだ。
そうしてディオティマは美の階梯について語っていき、最終的に「美そのもの」という審級に辿り着く。これがいわゆる「美のイデア」というものだろう。
まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというようなものでもなく、時としては美しく時としては醜いということもなく、またこれと較べれれば美しく彼と較べれば醜いというのでもなく、またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというようなものでもない。なおまたこの美は顔とか手とかまたはその他肉体に属するものとして観者に顕われることもなく、また同様に言説もしくは学問的認識の形をとり、あるいはその他の或る物の――たとえば、生物の内に、または地上や天上に、またはその他の物の――内に在るものとしてでもなく、むしろ全然独立自存しつつ永久に独特無二の姿を保てる美そのものとして彼の前に現われるでありましょう(p.133)このないないづくしの「美そのもの」なるものは、人間には到底到達不可能な神秘的な境地ということになりそうだが、しかしこれは、その到達可能性というよりも、美の階梯の方向性を定めるために機能するものだということなのだろう。
そうしてソクラテスの語りが終わったあと、乱入してきたアルキビアデスによって、ソクラテスその人こそ、まさに極めてエロス的な人物なのだ、というようなベタ褒め演説が行われる。アルキビアデスは、ソクラテスという個別の肉体を愛してしまった男である。しかしディオティマの教えによれば、個別の肉体への愛は美の階梯の最初の、最も低いステップとして、いつかは卒業/忘却されなければならないものだ。酔いの勢いに任せたアルキビアデスの語りは、イデア論的な階梯の冷徹な上昇に対する、剥き出しの人間性による反乱(あるいは未練)のようにも読める。
プラトンのレトリックへの違和感と、その説得力
こうして整理してみると、どうも自分の読み方はソクラテスパートだけに偏っていて、その前の5人のパートを単なる「前座」としてしか見ていないようにおもえる。いや、読んでいるときにはそれぞれになるほどとかおもしろいねとかおもいつつ読んでいたはずなのだけれど、結局最後のソクラテスの部分を「まとめ」、「総括」、「正解」みたいに感じてしまっているというか。
あと、ソクラテスは自分自身の言葉でなくて基本的にディオティマから聞いた話、という形でエロス論を進めていくのがちょっとずるいな、ともおもった。「無知の知」を標榜する彼が、愛智者(=哲学者)という立場を維持するためには、自らが教説を語る人になってはいけない、というメタ的な配慮なのかなとはおもうのだけれど。ディオティマという神秘的な権威を利用することで、自分の好き勝手にエロス像やイデア論を語っているように見えなくもない。
また、エロスという客観的な神霊の話をしていたはずが、いつの間にか、人間の幸福追求という主観的な本質論にスライドしていく(…というか、人間という主体がエロスという構造のなかに回収されていくような)流れにもやや違和感を覚えた。まあ、プラトンにとってエロスとは外在的な何かではなく、不完全な人間を突き動かす欠乏のエンジン、より善いもの、より美しいものを求めて自己を変容させる飛躍のエナジー――それは人間の神性のようなものと言ってみてもいいのかもしれない――を指すものだと考えるべきなのだろう。
生活や仕事において、単に生存するため以上のこだわりを持ったり、こうして読書ノートをアホみたいな時間をかけて書いたりすることも、一種のエロス的欲求ということなのだろう。あらゆる向上心を「美」という言葉でパッケージングしていくかのようなプラトンのレトリックには何だか強引さも感じるが、不完全で「滅ぶべき者」たる人間が、イデアに触れるための唯一のルートとしてこれを用意したという点には、なるほど…と納得させられてしまう感はあった。
