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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門』/ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル

作品概要・所感

現代の分析美学を代表するという3論者による、初学者向けのテキスト。「美」をいわゆる芸術作品の専売特許とするのではなく、服選びや食事、聴く音楽、道具の触り心地といった日々の「感性的生活(Aesthetic Life)」の問題として捉え直す一冊だ。

内容自体はとりたててややこしいものではなく、論理も明快でスムーズに読み進めることができる。ただ、俺にとっては、既存の価値観を揺さぶられるような箇所や、逆に反論したくなるような箇所についてもとくに見つけられなかったため、なんとなく腑に落ちた、程度の読後感になってしまった感がある。

感性的生活に、論理的な市民権を

美を「対象」としてではなく、生活の問題として記述している点が本書の最大の特徴だ。そして、人が何を美しいと感じ、何を選択するのか、ということは単なる個人の趣味には留まらず、「自分が何者であるか」というアイデンティティや他者との繋がりを形成する上で核心となる役割を担っている…といった内容が論じられている。

取り上げられるのは、たとえば以下のようなトピックだ。

  • 価値観の表明としての美的選択:自身の感性に従って何かを選び取るということは、自らの価値観を世界に対して表明する行為である。このプロセスこそが、単に生存要件を満たすということを超えて、人生に自分なりの筋道を付与する行為だと言える。

  • 自律の根拠としてのスタイル:実用性や効率性、道徳性といったものとは別の次元で、自分らしいスタイルを貫くということは、人間としての誠実さにも関わることである。つまり、誰かに強制されたからではなく、自分自身の感性に従って行動を選び取ることは、自律した人間の行動原理として正当化され得る。

  • 感性の共有によるネットワーク:「これは美しい」と表明することは、自身の世界の捉え方を他者と分かち合う試みである。それは、互いの差異を認めつつ価値を交換し合う、緩やかな共同体、深い人間関係の基礎となるものだ。

こうした議論は、分析美学的な手続きによって「感性的生活」に論理的な市民権を与えるものと言えるだろう。ただ、こういった内容の多くは、上記のようににはっきりと言語化はしておらずとも、誰もが普段の生活実践のなかで実感しているし、すでに内面化されているような事柄ではないか、ともおもえる。

掘り下げられなかった根源的な問い

読み進めていくなかで、どこか焦点が合わないというか、しっくりこないような感覚を覚えたのは、本書のタイトルにある『なぜ美を気にかけるのか』という問いと、本書が主戦場としている領域とが微妙に乖離しているからではないか、という気がする。

本書の原題は、"Aesthetic Life and Why It Matters"。そのまま訳してみれば、感性的生活とその重要性、といったところだろうか。「訳者あとがき」で指摘されているように、本書は人間が、「すでに美的なものに気を配る生活を送っている」ことを前提とし、その生活がどのような意義を持ち、どのように正当化され得るか、という「規範」の問題に焦点を当てている。

俺が『なぜ美を気にかけるのか』という日本語版タイトルから勝手に期待していたのは、「そもそも人間は、なぜ美的なものにこれほどまでに気を配っているのか」という、より根源的な動機の解明というものだったようにおもう。それはたとえば、自分がなぜこの服を選び、なぜこの音楽に惹かれるのか、という根拠への問いでもあるからだ。だが、本書はその問いに正面から向き合うものではなく、その先にある「感性的生活の重要性」の論理的基礎づけの方にひたすら注力している。

なぜわたしたちは美的なことがらにこうも気を配っているのか。なぜわたしたちは、他の多くの領域よりも美的領域に気を配っているように見えるのか。道徳的ジレンマの解き方について意見が分かれただけでは、二回目のデートは危うくならないのではないか。極端な利他主義者を除けば、ほとんどの人はチャリティーに寄付するよりも美的な追求に多くのお金を費やしている。なぜ美的なものは、わたしたちにとってこうも大切なものになっているのか。(p.20)

このように、本書冒頭で「なぜ美を気にかけるのか」という問題には一瞬触れられてはいるのだが、パラグラフの終わりでは、「なぜ美的なものは、わたしたちにとってこうも大切なものになっているのか」とすぐに別の問題へとスライドしていってしまっている。このふたつは一見似ているが、実は微妙に異なる問いではないだろうか?人間が美を気にかける理由と、美が人間にとって大切なものである理由は、必ずしも同じものではないはずだ。

スライドしていった先で行われる「感性的生活の重要性」に関する議論そのものは明快で、正直とくに異論もない、という感じなのだが、日本語版タイトルから俺が勝手に見込んでいたような内容が十分に扱われていなかったものだから、何か本選びミスったかも…という気持ちに(これまた勝手に)なったりもしたのだった。

『人間とは何か』/マーク・トウェイン

作品概要・所感

『トム・ソーヤの冒険』、『ハックルベリー・フィンの冒険』で知られるマーク・トウェインの晩年の作品。理想に燃える青年の素朴な人間信条を、ひとりの老人が徹底的にドライな人間観に基づく論理で叩き潰していくさまが、対話篇の形式で描かれていく。

訳者の中野好夫は、「あとがき」で、「著しく人間不信のペシミズムが色濃くなってくる」、「決定論的人間観に陥った」などと本作を評していたけれど、個人的にはそこまでペシミスティックな内容だとは感じなかった。どちらかと言えば、人間という存在の仕様について、誰もが口をつぐんでいたり濁したりしていたところを、身も蓋もなく淡々と暴きまくっている、という印象の方が強い。あからさまで、悪びれない感じというか。老人の言葉に無理やり前向きなメッセージを読み取る必要もないだろうが、逆に悲観し過ぎるほどの内容でもないのでは?とはおもったのだった。

人間は、自身の「心の慰め」を求めるだけの「機械」に過ぎない

老人はまず、人間は自ら何かを考え、創り出す存在ではなく、外的な力の作用によって動かされる「機械」に過ぎないと語る。どんな些細なことであっても、人間はその頭だけで発明することはできないし、善悪の区別にしたって、みんな外からの観念として知る他ない。(外から来ない思考、なるものを持っているのは、神々だけである。)

つまり、人間の頭ってものは、なに一つとして新しいものなんか考え出せるもんじゃない、そんな風にできてるんだよ。外から獲た材料を利用するだけの話なんて、要するに機械にしかすぎないんだよ。ただ自動機械みたいに運転するだけなんで、意志の力でうごいたりするんじゃない。自分で自分を支配する力なんか、もちろんないし、その所有主にだって命令する力はない。(p.18)

どんな高尚な思考も、外部から得た材料をもとに、生まれ持った「気質」や後付けの「教育」というフィルターを通して処理した結果に過ぎない。自由意志などというものは幻想であって、人間はただ与えられた状況に適応して反応しているだけの存在である、ということだ。

そして、そのような存在たる人間を駆り立てる唯一の原動力というのは、「自分自身の心の満足感をえる」ことであり、それ以外には絶対にあり得ない、と老人は断言する。

結構、これがその法則だよ、よく憶えとくんだな。つまり、揺籃から墓場まで、人間って奴の行動ってのは、終始一貫、絶対にこの唯一最大の動機――すなわち、まず自分自身の安心感、心の慰めを求めるという以外には、絶対にありえんのだな。(p.31)
心の平安をしっかり握るためには、人間、どんなことだってやる。逆にまた、そうでない目的のためにはだな、誰がなんといおうと、何一つやらせることはできん。(p.36)

人間が求めるものはまず何よりも「心の満足感」、「心の慰め」であって、だからこそ人間の行為は、もっとも多く自分自身の「心の満足感」が得られるであろう行為に決まっている、ということだ。そのため、人が他人のために何かをするのは、それが何よりもまず自分自身のためになるというはっきりした条件がある場合に限られる、ということになる。(もし他者の苦痛が自分を不快にさせないのであれば、人間はその他者の苦痛には完全に無関心でいられる。)

いわゆる文字通りの意味での自己犠牲などというものは存在し得ず、すべては「自己満足」という名の主情念(マスター・パッション)、「内なる主人」への奉仕に過ぎないのだ。

では、人間が「自己満足」のためにしか動かない「機械」であるとすれば、人はどのように生きるべきだ、と言うことができるのか?老人は、人類全体の向上プランとして、以下のような「理想」をいちおうは提示してみせる。

つまり、まず己自身のために善行をなせ、すれば、隣人もまた必ずその結果たる恩恵に浴するわけなんだからと、そんな風にまず考えて、大いに幸福感に浸ることだな。(p.105)
せっせと君たちの理想を向上させるように努めることさ。そしてみずからがまず満足すると同時にだな、そうすれば、必ず君たちの隣人、そして社会をも益するはずだから、そうした行為に確信をもって最大の喜びが感じられるところまで、いまも言った理想をますます高く推し進めていくことだな。(p.105)

他者のために善行をなすことが原理的に不可能であるのならば、では己自身のためにこそ善行をなせばよい。そうして善いことを成したときに得られる「自己満足」の喜びを高めていくことができれば、それが回り回って社会を益することになるだろう…というわけだ。

人間は「変わるべき存在」か、「決して変わらぬ存在」か

先日プラトンの『饗宴』について記事を書いたばかりなので、本作の人間観と比較してみるというのもおもしろそうだ。ざっくり考えてみると、以下のような感じだろうか。

  • プラトン『饗宴』(ソクラテス/ディオティマ): 不完全な人間は、エロス(美の欠乏)をエンジンにして、個別の肉体の美から抽象的な「美のイデア」へと階梯を登り、自己を超変容させていくべき存在である。

  • トウェイン『人間とは何か』(老人): 人間が「理想」を高く掲げようとするのも、結局はそれが自分にとって最も大きな「心の慰め」をもたらすからに過ぎない。どのような高みに登ったつもりでも、人間の欲求は常に自己の内側だけにある。

プラトンが、人間は「変わりゆくべき存在」だと考えていたとすれば、トウェインにとって人間は、「決して変わることなどできない存在」だった、と言えそうだ。

もっとも、両者ともに似ているのは、欠乏や欠落をこそ、人間の原動力だと見なしている点だろう。プラトンのエロスは欠乏している美を希求するものだし、『人間とは何か』の老人が言う「心の慰め」というのも、内部の欠落を埋めようという欲求だと考えることができる。そういう意味では、人間存在のあり方に関しては両者の認識はそう大きく違ってはいない、ということであるのかもしれない。

どちらもある種似たような人間理解をしつつ、しかしその結論としては真逆になっているわけで、そこがふたりのスタンスの違いを表しているということになるだろう。個人的には、トウェインの人間観は理解しやすく、取り立てて違和感もない感じ、逆にプラトンのイデア論は、納得できこそすれ、強引な理屈だなという感触を持ってはいるのだけれど…。

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『饗宴』/プラトン

作品概要・所感

前416年の春のこと、悲劇コンクールでアガトンが初優勝したことを祝う宴会の席で、各参加者が愛の神エロスを讃える演説を行おうということになった。若きパイドロス、アガトンの恋人パウサニアス、医師エリュキシマコス、喜劇詩人アリストファネス、そしてアガトン、とそれぞれがエロスのさまざまな面を賛美していく。

大トリを務めるソクラテスは、自分は「真実」のみを語ると宣言し、以前にマンティネイアの巫女ディオティマから聞いたというエロスの真実について語ってみせる。エロスはそもそもその出生からして神ではなく、ダイモンである。そしてそれは、美を体現するのではなく、美を希求する存在なのだ、と言うのだ。ソクラテスの話が終わるころ、酔っ払ったアルキビアデスが会場に乱入してくる。アルキビアデスはソクラテスがその場にいることに驚き、彼を賛美する演説をぶつのだった…!

プラトンをまともに読んだのは、たぶんこれが2冊目。対話篇なので読みやすいし、そんなに前提知識が求められるようなところもない作品なのだが、なんでこんなことを書いてるんだ?みたいな箇所も結構あったりして、なかなか考えさせられる読書だった。

エロスは美を欠いているからこそ欲求する

作品の構成としては、上記のあらすじのように、まずは5人によるエロス賛美の演説が描かれる。まあこれは、当時のさまざまなエロス観のバリエーションを提示した、というようなことなのだろう。ソフィスト的な相対主義的エロス解釈、と言ってみてもいいのかもしれない。

その後、ソクラテスが(ディオティマから聞いた話だけど…という形で)それらのエロス論を批判的に乗り越えていくというか、アウフヘーベンしていくような流れになる。

ディオティマの話によれば、エロスは、ペニア(窮乏)が、メティス(巧智の神)の子であるポロス(術作の神)と交わることで生まれた存在である。そのため、そもそもエロスは神ではなく、中間的な存在、神霊(ダイモーン)なのだという。

「だって貴方は認容なすったではありませんか、エロスは、善いものや美しいものを欠いていればこそ、まさにその欠いているものを欲求するのだ、と。」
「実際認容しましたよ。」
「では美しいものにも、善いものにも全然与らぬ者がどうして神であるはずがありましょう?」
「けっしてそんなはずはないように思われます。」
「それ御覧なさい、貴方もエロスを神だとは思っていないのでしょう?」と彼女はいった。(p.113-114)
「ではいったい何ですか。」
「さっきもいったように、滅ぶべき者と滅びざる者との中間に在る者なのです。」
「では何ですか、ディオティマよ。」
「偉大な神霊(ダイモーン)なのです、ソクラテスよ。なぜなら、すべて神霊的な者は神的な者と滅ぶべき者との中間に在るからです。」
「ではどんな能力を持っているのです?」と私は訊いた。
「それは、人間から出たことを神々へ、また神々から来たことを人間へ通訳しかつ伝達するのです。すなわち一方からは祈願と犠牲とを、他方からは命令と報償とを、それはまた両者の中間に介在してその間隙を充たします。その結果万有は結合されて完き統一体となるのです(p.114)
他方彼は智慧と無知との中間にいるのです。それはこういうわけなのです。およそ神と名のつく者は愛智者(フィロソフォス)でもなく、また智者となることを願うというようなこともない(彼らはすでにそうなのですから)、その他誰でも智慧ある者はもはや智慧を愛求することをしないでしょう。しかし、他方、無知者もまた智慧を愛求することもなければ、また智者になりたいと願うこともないものです。(p.116-117)

人間とは、すべて善きものが自分自身のものとなることを常に望んでいるものだ。善きものを持つこと=幸福になることであり、それこそが人間の終局的な望みであるからだ。そのような人間にとって、中間的存在たるエロスは、「美に対する愛(p.108)」、「美を求める愛(p.117)」として働くものだということになる。

もっとも、たとえ美、善きものを手に入れたとしても、それは時の流れのなかで必ず失われてしまう。人間は死すべき存在だからである。そこで人間が欲するのは「生産」すること、「産出」すること、つまり新たなもの――それは子供でも、名声でも、作品でも、仕事でもあるだろう――を生み出すことだ。いわば不死を模倣し、少しでも不死に近づこうというわけだ。

そうしてディオティマは美の階梯について語っていき、最終的に「美そのもの」という審級に辿り着く。これがいわゆる「美のイデア」というものだろう。

まず第一に、それは常住に在るもの、生ずることもなく、滅することもなく、増すこともなく、減ずることもなく、次には、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いというようなものでもなく、時としては美しく時としては醜いということもなく、またこれと較べれれば美しく彼と較べれば醜いというのでもなく、またある者には美しく見え他の者には醜く見えるというように、ここで美しくそこで醜いというようなものでもない。なおまたこの美は顔とか手とかまたはその他肉体に属するものとして観者に顕われることもなく、また同様に言説もしくは学問的認識の形をとり、あるいはその他の或る物の――たとえば、生物の内に、または地上や天上に、またはその他の物の――内に在るものとしてでもなく、むしろ全然独立自存しつつ永久に独特無二の姿を保てる美そのものとして彼の前に現われるでありましょう(p.133)

このないないづくしの「美そのもの」なるものは、人間には到底到達不可能な神秘的な境地ということになりそうだが、しかしこれは、その到達可能性というよりも、美の階梯の方向性を定めるために機能するものだということなのだろう。

そうしてソクラテスの語りが終わったあと、乱入してきたアルキビアデスによって、ソクラテスその人こそ、まさに極めてエロス的な人物なのだ、というようなベタ褒め演説が行われる。アルキビアデスは、ソクラテスという個別の肉体を愛してしまった男である。しかしディオティマの教えによれば、個別の肉体への愛は美の階梯の最初の、最も低いステップとして、いつかは卒業/忘却されなければならないものだ。酔いの勢いに任せたアルキビアデスの語りは、イデア論的な階梯の冷徹な上昇に対する、剥き出しの人間性による反乱(あるいは未練)のようにも読める。

プラトンのレトリックへの違和感と、その説得力

こうして整理してみると、どうも自分の読み方はソクラテスパートだけに偏っていて、その前の5人のパートを単なる「前座」としてしか見ていないようにおもえる。いや、読んでいるときにはそれぞれになるほどとかおもしろいねとかおもいつつ読んでいたはずなのだけれど、結局最後のソクラテスの部分を「まとめ」、「総括」、「正解」みたいに感じてしまっているというか。

あと、ソクラテスは自分自身の言葉でなくて基本的にディオティマから聞いた話、という形でエロス論を進めていくのがちょっとずるいな、ともおもった。「無知の知」を標榜する彼が、愛智者(=哲学者)という立場を維持するためには、自らが教説を語る人になってはいけない、というメタ的な配慮なのかなとはおもうのだけれど。ディオティマという神秘的な権威を利用することで、自分の好き勝手にエロス像やイデア論を語っているように見えなくもない。

また、エロスという客観的な神霊の話をしていたはずが、いつの間にか、人間の幸福追求という主観的な本質論にスライドしていく(…というか、人間という主体がエロスという構造のなかに回収されていくような)流れにもやや違和感を覚えた。まあ、プラトンにとってエロスとは外在的な何かではなく、不完全な人間を突き動かす欠乏のエンジン、より善いもの、より美しいものを求めて自己を変容させる飛躍のエナジー――それは人間の神性のようなものと言ってみてもいいのかもしれない――を指すものだと考えるべきなのだろう。

生活や仕事において、単に生存するため以上のこだわりを持ったり、こうして読書ノートをアホみたいな時間をかけて書いたりすることも、一種のエロス的欲求ということなのだろう。あらゆる向上心を「美」という言葉でパッケージングしていくかのようなプラトンのレトリックには何だか強引さも感じるが、不完全で「滅ぶべき者」たる人間が、イデアに触れるための唯一のルートとしてこれを用意したという点には、なるほど…と納得させられてしまう感はあった。

『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』

作品概要・所感

この映画で描かれているのは、タイトル"A COMPLETE UNKNOWN"のとおり、周囲の人間にとってまったく計り知れないところのある、正体不明といってもいいような男としてのボブ・ディランである。ディランといえば、気難しくてミステリアス、安易に理解されることを頑なに拒み続ける音楽家、というイメージが強いが、本作でもその像が崩されることはない。

フォークソング運動の旗手としてもてはやされることに反発し、大衆の望むのとは逆のことをやり続ける、とうそぶくディランは、一見、「逆張り派」のようにも見える。だが、実際のところ、彼が何をどう考えているのかは傍から見ていてもよくわからない。彼は自身の行動原理について他者に説明しないからだ。

これは単なる不親切、あるいは他者への無関心にも見えるが、芸術家としての美学ということでもあるだろう。そしてそのように、ディランが説明しないでいるからこそ、我々は彼の音楽について、好き勝手に主観で語りまくることができてしまうわけだ。本作は、そんなディランの姿勢を尊重してか、彼の内面をほぼ説明することなく、観客に想像させるような作りになっている。

何にも縛られず、自由と音楽とを結びつけた男

本作のハイライトはもちろん、いまや伝説となっている1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでの演奏シーンだと言えるだろう。が、本作らしさを最もよく表しているのは、むしろその前日のエピソードではないか。

ディランは、元恋人のシルヴィ(スージー・ロトロの役割を担う、映画オリジナルのキャラクター。ロトロは実際には同ライブ会場には行っていない)を会場に連れてくるが、彼女は「やっぱりこんな男とは無理だ」と去ろうとする。ディランは港まで追いかけ、「帰らないでくれ」と懇願するものの、それ以上の釈明や説明は一切しない。

彼は相手の不安や悲しみを取り除こうともしないし、愛を誓うこともしない。ただ「帰るな」と言うだけなのだ。シルヴィはディランにとって、自身の弱さの片鱗を見せることができるほぼ唯一の存在であるはずなのだが、ディランは彼女に寄り添って自分を変えたりする――例えば、彼女の望むような男になる――ことなどできはしないし、そんなことなどおもいもよらないのだ。

そうして、その翌日、シンガロングできるフォークソングを期待する主催と観客からの激しい罵声を歯牙にもかけず、彼はエレキギターをかき鳴らして、バンドと共に"Like A Rolling Stone"を歌い上げる。シルヴィとの離別を含めたこの一連の流れこそ、ディランがもはや誰にとっても"a complete unknown"であり続けるのだ、ということを象徴するものだと言えるだろう。ディランは誰にも何にも縛られず、どこまでも変化し続ける、というわけだ。その姿には、独力で自由と音楽とを強引に結びつけてしまったかのような、わけのわからない格好良さが感じられる。

 *

ところで、本作のサウンドトラックは、全編がディランの初期楽曲に彩られているのでもちろん最高なのだけれど、ティモシー・シャラメによる演奏や歌声のなりきり具合には感心してしまった。映画のなかでは「まさにこれってディランの声じゃん!」と感じさせられるリアリティがあるのに、鑑賞後にディラン本人のアルバムを聴いてみると、当然というかなんというか、シャラメとディランではぜんぜん違う声であることに気付かされるのだ。つまり、シャラメはディランそのものではもちろんないのだけれど、この映画においては、まぎれもなくディランたり得ているのだ。

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『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

作品概要・所感

アンディ・ウィアーの原作は未読。彼の小説は、『火星の人』と『アルテミス』しか読んだことがないのだけれど、それらと似た雰囲気の映画になっていた。

つまり、おもしろさの主軸にはSF的な設定の奇抜さというよりも、主人公の科学的なトライアンドエラーの工程を丁寧に描くという面が大きくあり、極限状況を描いた物語であるくせに悲壮感はあまり感じられず、あくまでポップで明るく、一貫したユーモアとオプティミズムで乗り切っていこうぜ、というノリがある。SFだけれどもしっかりと万人に受けやすい要素が組み込まれた作品、という感じだろうか。

本作の原作小説は、世のなか的には「めちゃくちゃおもしろい!ネタバレ厳禁ね!」と、相当話題になっていたとおもうけれど、この映画がどのくらいおもしろかったかというと…どうだろう、個人的にはまあ可もなく不可もなくだった、というのが正直な感想ということになりそうだ。

ど直球のエンタメ大作がもたらす、心地よさと物足りなさ

156分となかなかの長尺である本作を牽引していくのは、執拗なまでに投げ出され続けるミステリ的要素である。なぜ主人公は宇宙にいるのか、なぜ隣に死体があるのか、一介の教師に過ぎない彼がなぜ人類の命運を託されたのか、この物質は何か、このエイリアンは敵か味方か…?などなど。常に何らかの謎が未解決のまま眼前に残され続けるものだから、観客は次の展開を気にしないではいられなくなるのだ。

また、主人公と未知の生命体(ロッキー)とのバディものとしての側面も大きいだろう。もともと完全に異質な存在同士である彼らが、さまざまな工夫によって制約を乗り越え、コミュニケーションを取る方法を編み出し、最終的には互いの命を預け合うような関係にまで至る、というのはベタだが熱い展開である。そしてそのエンジニアリングのプロセスというのはさすがはアンディ・ウィアーという感じで、ああそうやってやり取りしていくのね、なるほど…!みたいな納得感を持ったものになっている。(そしてロッキー、見た目は完全にただの岩なのだが、動きと音が加わることでなんともキュートな存在感の相棒になっている。この可愛さは映画ならではのものだろう。)

こういった本作の特徴は、大作ハリウッド映画のテンプレートそのものだと言うことができるだろう。

 *

そういえば、本作を見て真っ先に頭に浮かんだ感想は、ああこれって、『アルマゲドン』の自己犠牲と、『E.T.』の異星人との交流っていう、ふたつの超王道プロットをがっちゃんこしたってことね、ということだった。しかし、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とこれらの作品を隔てているのは、これを伝えたい、見せたい、という強い意志、作り手の執念のようなエゴの有無ではないか。

本作には、マイケル・ベイのような過剰で暑苦しいヒロイズムもなければ、スピルバーグが描くような、子供の孤独に寄り添う詩的とも言えるような叙情性もない。それらの生み出す過剰さはすっかり削ぎ落とされ、誰にとっても飲み込みやすく整えられている。いわば、クリーンでとってもお行儀の良い、テンプレ的ハリウッド映画に留まっているのだ。

観客を楽しませる工夫が全編に渡って凝らされているので、普通にエンタメ映画として心地よく見続けることができはするものの、手堅いなー、という印象ばかりが残ってしまった。最後まで興味が途切れることはなかったのだが、どこかで強く引っかかることもなかった、というか。たぶん原作のほうにはSF要素やアンディ・ウィアーらしい実証実験のシーンがもっと濃密に詰め込まれていて、そういう部分がおもしろかったのだろうな、そしてそのあたりは映画化に際してオミットされてしまったのだろうな…という雰囲気を感じはしたのだけれど。

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