作品概要・所感
この映画で描かれているのは、タイトル"A COMPLETE UNKNOWN"のとおり、周囲の人間にとってまったく計り知れないところのある、正体不明といってもいいような男としてのボブ・ディランである。ディランといえば、気難しくてミステリアス、安易に理解されることを頑なに拒み続ける音楽家、というイメージが強いが、本作でもその像が崩されることはない。
フォークソング運動の旗手としてもてはやされることに反発し、大衆の望むのとは逆のことをやり続ける、とうそぶくディランは、一見、「逆張り派」のようにも見える。だが、実際のところ、彼が何をどう考えているのかは傍から見ていてもよくわからない。彼は自身の行動原理について他者に説明しないからだ。
これは単なる不親切、あるいは他者への無関心にも見えるが、芸術家としての美学ということでもあるだろう。そしてそのように、ディランが説明しないでいるからこそ、我々は彼の音楽について、好き勝手に主観で語りまくることができてしまうわけだ。本作は、そんなディランの姿勢を尊重してか、彼の内面をほぼ説明することなく、観客に想像させるような作りになっている。
何にも縛られず、自由と音楽とを結びつけた男
本作のハイライトはもちろん、いまや伝説となっている1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでの演奏シーンだと言えるだろう。が、本作らしさを最もよく表しているのは、むしろその前日のエピソードではないか。
ディランは、元恋人のシルヴィ(スージー・ロトロの役割を担う、映画オリジナルのキャラクター。ロトロは実際には同ライブ会場には行っていない)を会場に連れてくるが、彼女は「やっぱりこんな男とは無理だ」と去ろうとする。ディランは港まで追いかけ、「帰らないでくれ」と懇願するものの、それ以上の釈明や説明は一切しない。
彼は相手の不安や悲しみを取り除こうともしないし、愛を誓うこともしない。ただ「帰るな」と言うだけなのだ。シルヴィはディランにとって、自身の弱さの片鱗を見せることができるほぼ唯一の存在であるはずなのだが、ディランは彼女に寄り添って自分を変えたりする――例えば、彼女の望むような男になる――ことなどできはしないし、そんなことなどおもいもよらないのだ。
そうして、その翌日、シンガロングできるフォークソングを期待する主催と観客からの激しい罵声を歯牙にもかけず、彼はエレキギターをかき鳴らして、バンドと共に"Like A Rolling Stone"を歌い上げる。シルヴィとの離別を含めたこの一連の流れこそ、ディランがもはや誰にとっても"a complete unknown"であり続けるのだ、ということを象徴するものだと言えるだろう。ディランは誰にも何にも縛られず、どこまでも変化し続ける、というわけだ。その姿には、独力で自由と音楽とを強引に結びつけてしまったかのような、わけのわからない格好良さが感じられる。
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ところで、本作のサウンドトラックは、全編がディランの初期楽曲に彩られているのでもちろん最高なのだけれど、ティモシー・シャラメによる演奏や歌声のなりきり具合には感心してしまった。映画のなかでは「まさにこれってディランの声じゃん!」と感じさせられるリアリティがあるのに、鑑賞後にディラン本人のアルバムを聴いてみると、当然というかなんというか、シャラメとディランではぜんぜん違う声であることに気付かされるのだ。つまり、シャラメはディランそのものではもちろんないのだけれど、この映画においては、まぎれもなくディランたり得ているのだ。
