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『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』/鷲田清一

哲学者の著者が、ファッションについて、あるいは、人が自分の身体をどのように経験しているかについて、考察している一冊。

人の身体というのは、<像(イメージ)>だと鷲田は言う。身体の全表面のうち、人が自分の目で見ることができる部分はごく限られているし――自分の顔だって見ることができない――、身体のすべてを自分の思うままに統御することなどなんて、もちろんできない。自分の身体について自分自身で確認できるのは、常にその断片でしかないわけで、そういう意味で、自分の「身体」とは、自分が想像的に構築する<像>でしかあり得ない、というわけだ。「身体」は、自分のもっとも近くにありながら、ある意味ではどこまでも遠く隔たったものでもある。

<像>、つまり想像、解釈の産物であるからして、「身体」とは何とも捉えがたく、脆く壊れやすいもの、常にどこかちぐはぐなものだ。衣服とは、そんな「身体」の上に身につけるものであるわけで、だからその本性は、身体を保護するものという以上に、イメージを構築するためのものだと言える。

たとえば、制服やスーツといったものは、社会的な意味やそれを身につけた際の行動の規範が明示されている衣服なので、それを着ることで、社会のなかの一員としての自分、という安定した<像>を形作ってくれるものだと言える(もちろんそれは、画一性や没個性といった感覚に一直線に繋がってもいる)。そして、そんな制服やスーツをあえて着崩すことで、<像>にツイストを与えてみせることもできる。また、逆に、何を着てもいい、という場合、今度は自分の<像>を確定するための選択の幅が広すぎて、何をどのように選んだものか、落ち着かなくなったりもする。ファッションとは、「身体」と衣服(服飾)や化粧によって構築される自分の<像>を支えたり、上塗りしたり、揺さぶったり、変形させたりする役割を担っているものなのだ。

鷲田は、「プロポーションをいちばんたいせつにするファッション、それを突き動かしているのは、ひょっとしたら、人間という存在の、プロポーションを欠いたありかたではないか」(p.175)と語っている。ファッションをたのしく感じたり、あるいは新しい服が欲しくなったりするのは、不確かでちぐはぐな自分自身の<像>をアップデートしたいという気持ちがあるからだし、コーディネートや髪型がうまく決まったときに気分が良くなるのは、自身の理想の<像>に近づけているようにおもえるから、ということなのかもしれない。

ぼくらにとってこの最終的な真理とはいったいなにだろうか。生きることの根拠、つまり、じぶんがじぶんであり、他人と秩序立った関係をむすびつづけること(たとえば家族や隣人や同僚として)、そのことが、偶然のこと、つかのまのことではなくて、当然そうあるべき根拠をもっていたということを確信させてくれるようなことがらである。が、そんなものははたしてあるのだろうか。あるいは、ぼくらはそういう秩序の根拠をじぶんたちのうちに見いだすことができるのだろうか。 たぶんない。ないからこそ、ぼくらの意識を別のものに逸らせることで問題そのものを回避すべく、緻密に戦略を組んできたのではないだろうか。真に隠されるべきものを隠すために、別に、気を惹くものをでっちあげて、ひとの意識をそこに釘づけにしておくというやり方だ。それを、ファッションはもっとも巧妙に利用する。(p.44)
要するに衣服とは、「ほんとうに隠されるべきものはなにもない」ということ、秩序に最終的な根拠はないということ、そういう真に隠されるべきことを隠蔽する装置だということだ。(p.46)