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『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』/福田和也

[改訂版] ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 PHPビジネス新書

清水幾太郎は本を読んで得た内容を「表現」することで、はじめて本当に読めたことになる、ということを述べていたけれど、福田も本書で同じようなことを書いていた。

「情報」を得るというのは、けして受動的な行為ではないのです。むしろ、高度の自発性、能動性が要求される行為である。あるいは、その能動性こそが、情報獲得の効率を確保するのです。
情報における能動性とは、それを受けているその時点で懸命に頭を動かして、それが自分にとって価値のあるものか否か、さらにはそれをどう料理してアウトプットするかという処まですましてしまうということです。
逆にいえば、料理法まで至らない、思いつかないものは、とっておいても仕方ないのです。そういうものは、手許に残さず処分してしまうべきでしょう。

情報に対してアクティブに働きかけなければ、それを本当に「得る」ことはできないし、それを使いこなすことだってできはしない、ということだ。

また、福田は、取材時には、自分が「考えたこと」――話し手の印象、雰囲気、その話をどうおもうか、その情報の持つ意味は何であるか――をこそメモしろ、そして、執筆のことを想定しながら取材しろ、とも書いている。

「どう書こうか」と能動的に構えることと、ただ「お説拝聴」と承るのでは、同じ話を聞いていても、その話にたいする理解、把握がまったく違ってくるのです。それは、その場における相手との対峙であり、積極的に相手の話を受け取り、消化し、使いこなすという解釈の姿勢なのです。

取材した談話はそのままでは記事にはならない。そこから抽出した情報なり知見なりを再構成して、自分の言葉、自分の文章にしなくてはならない。そのときに必要なのは、インプットした情報にまつわる自分の感覚でありかんがえであり、自分の解釈である、ということだろう。

このあたりも、清水が本を読むことについて書いていたのと同じことだと言っていい。インプットしたものは、それだけでは役に立たない。本当にそれを「得る」「理解する」「把握する」ためには、自分なりにそれについてかんがえ、料理し、咀嚼し、消化することが必要なのだ。

もっとも、そんなことは誰にでもわかってはいることだろう。でも、それをできれば効率よくやりたい、できるものなら「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」を自分にも使えるように教えてほしい、などとおもってしまうのが人情というもので、だから本書にはこういうタイトルがつけられているのだ。とはいえ、そんな明快で汎用的な「方法」なるものがあるはずもない。

読んだり書いたりかんがえたりするということは、どこまで一般化しようとしても、どうしたってその人個人の生理というか身体性に関わってくる問題なのだ。だからこそ、福田は本書で、「読みながらメモを取るべきではない」とか、「抜書きするときはPCに打ち込むのではなく、手帳に手書きで書き写す」とか、「抜書きは、楽器で曲のコピーをするように、書き手になったつもりで書く」とか、「万年筆など好きな筆記具を使う」とか、自分の生理的なシステムをうまく動かすための方法論をいろいろと書いているわけだけれど、それらはあくまでも福田の身体と経験があってこそ効果を発揮しているものたちであって、その「方法」を適用すれば誰でも福田のように書ける、ということには当然ならないわけだ。

本書の読者は、ここに書かれているような情報についても、あくまでも能動的に、自分なりに咀嚼し、解釈しようとしていく必要がある。そうして自分なりにかんがえたことを通して、自分なりの「私の方法」を見つけていかなくてはならないのだ。