作品概要・所感
世は平安末期。方丈記に描かれている、秩序が崩壊しきった末法の世、略奪行為が常習化した万人の万人に対する闘争状態の時代である。主から急に暇を出された下人は、今後生きていくためには「盗人になるよりほかに仕方がない」とおもいつつも、その勇気を出すことができず、センチメンタリズムに捕われている。
雨の夜をやり過ごすために羅生門の高楼に上がった下人は、そこにいくつも転がる死体と、そのなかの女の死体から髪の毛を引きちぎっている老婆の姿を目にする。とっさに老婆を「許されざる悪」だと考えた下人は、老婆を引き倒す。そして老婆から、彼女の行為の理由は「髪を抜いて鬘にしようと思った」からだということを聞き出す。薄暗闇の羅生門の高楼、しかも周囲には死体がごろごろ、そこで死体から髪の毛をむしり取る老婆、という、退廃的なムード満点のシチュエーションからするとなんとも味気ない答えに、下人はどこか失望してしまう。
老婆は「だいたいこの女も悪いやつだった」とか、「餓死しないためにはこうするより仕方がないのだ」といった自己正当化の弁明をし始めるが、その言い草を聞いているうちに、下人は「或勇気」を得るに至る。この新たなる価値観を得た下人は、もはや何の迷いもなくその場で老婆から衣服を追い剥ぎし、彼女を蹴倒しては、羅生門の外、「黒洞々たる夜」の底へと駆け去っていくのだった…!ものすごく有名な短編だが、なかなか独特の味わいがある一編だと言っていいだろう。
しかし、これを聞いている中に、下人の心には、或勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、又さっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、餓死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時の、この男の心もちから云えば、餓死などと云う事は、殆、考える事さえ出来ない程、意識の外に追い出されていた。(p.16)
末法の世で生き延びるための「或勇気」
老婆の弁明を聞いたことで、どういうわけか、下人のなかに「或勇気」が生まれ出てきて、そこからひといきに決断に至ってしまう。というところが本作のもっともおもしろいところだろう。
欲望とは常に他者の欲望である、と言ったのはラカンだが、これを踏まえるならば、下人が「或勇気」を得たのは、老婆の行為が末法の世における生存論理を示していることに気がついたからだ、と言うことができるかもしれない。つまり彼は、既存の倫理観の崩壊によって生まれた新たな「他者の要求」を聞いたのだ。そして、この論理こそが、下人が物語冒頭から抱えていた「盗人になる」というアイデアを、「許されざる悪」から「生きるための必然的な手段」という新たな規範へ転換させる大義になったというわけだ。老婆の言い分は、下人の欲望にいわば社会的なお墨付きを与えてくれたのである。
下人が置かれていた状況は一見特殊なものに見えるかもしれない。しかし、本作が描く、世のなかにおける人間のありよう――生きていくためには、自分なりの考えを持ち、それに基づいて行動していくことこそが必要だというのは――現代でも別にそう変わらないことではないか、という気がする。いまの世界だって、「いかに生きるべきか」なんて規範は、少なくともこの日本社会においては与えられていないだろう。資本主義の論理に従って市場競争に邁進し、資本の増殖に寄与することが唯一の規範、ということはできるかもしれないけれど…。既存の価値観が崩壊した世のなかにおいては、個が自ら生きるための論理を構築しなければ生き延びることなどできはしない、という話として、俺は本作を自分に引き寄せるようにして読んだのだった。
