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『次の東京オリンピックが来てしまう前に』/菊地成孔

東京オリンピックどころかパラリンピックまで開催されてしまった2021年だったわけだけれど、いま読んでも十分におもしろい一冊。菊地成孔が2017年から2020年までWebマガジンに連載していた記事に加筆修正して、一冊にまとめたものだ。東京オリンピックを始めとする時事ネタはもちろんのこと、音楽、映画、鰻、タクシー、ファミレス、メルカリ、人間ドック、読売新聞、ドナルド・トランプ、ざわちん、クレイジーキャッツ、コロナウィルスetc.について、いつもの軽躁的で強気で超饒舌な文体で好き勝手に語りまくっており、ただただ愉しいばかりのエッセイ集に仕上がっている。

菊地の過去作との違いということでいうと、SNS(と、そこでヒステリックに騒ぎ続ける人々)に対する苛立ちと怒りがストレートに爆発しまくっているところが大きいだろう。とにかくしょっちゅうブチ切れているのだが、その切れっぷりもまた愉しい。

SNSによって、退行的に、強く倫理的になった新人類たちは、まず国技大相撲を八百長だとして謝罪させることで、世界に胸を張って誇れる豊かで異形の文化にヒビを入れ、傷物にした。それから狂ったように嫌煙運動を進め、電子タバコという、叱られた子供の言い訳のような玩具を蔓延させ、音楽を考える上で非常に豊かな問題提起になった筈の佐村河内事件を一瞬で切除し、エビデンス主義によって、のびのびと好きなようにものを書く、ひいては発言する能力を自ら退化させ、やよい軒の庶民的美徳であった「おかわり自由」に、どうしても課金しろと迫り、その他数百に及ぶ、許しがたい、幼稚な蛮行の果てに、とうとう、路上で手を挙げ、空車を止めては、颯爽と乗り込む。という、タクシー移動者のダンディズムであり、日常であり、最も鎮静効果のある時間を奪おうとしている。(p.184−185)

筆者は、現行の「リベラル」が嫌いだ。「意識の高い正義」という、途轍もない普遍性を含む意味に肥大しているからである。(p.324)

現行のリベラル、特に「ネトウヨ」に倣って「ネトリベ」とも言うべきゾーンの住人の正義感たるや、本当に、腹の底から恐ろしい。恐ろしいとしか言えない。インターネット、特にSNSは民に万能感を与え、退行させる装置だが、最も恐ろしい正義は、幼稚な正義だからだ。「ネトウヨ」の勢力よりも、「ネトリベ」の勢力のが圧倒的に強い。再び、何度でも言うが、もう恐ろしくて恐ろしくて、毎日憂鬱である。ネトリベはリベなのに不自由さしか生まない。これは典型的な倒錯であり、筆者はあらゆる自由を愛する原理的なリベラリストである。(p.324)

「SNSによって、退行的に、強く倫理的になった新人類」、「ネトリベ」は、自らを無条件で正しい側に位置づけ、敵と認定した相手を叩くことで手軽に自己肯定感を得ようとしてしまう。そんな「意識の高い正義」の名のもとに幼児化が進行していったその先に待ち受けるものは、万人の万人に対する闘争状態であり、ファシズムまでもうひと押しというようなカリスマの待望論くらいであるだろう、と菊地は語っている。

「リベラル」、「ネトリベ」といった括り方の是非はともかく、いまの世のなかにこういう傾向があるということは否定できないだろうと俺もおもう。まったく、いまとなっては、はてなアンテナではてなダイアリーを巡回していたあの頃――もう15年以上も前になるわけだが――が、なんだかひどく眩しくおもい出されてしまったりもするのだ。