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『孤島』/ジャン・グルニエ

孤島 (ちくま学芸文庫)

孤島 (ちくま学芸文庫)

アルベール・カミュの才能を発掘した人物として知られる、ジャン・グルニエによる哲学的エッセイ。哲学的、とは言っても、空白や、一匹の猫の死、ある肉屋の病気、旅、花の香り、地中海の島々、すぎ去る時、といったものについて、思索的で淡々とした散文がまとめられたもの、という感じだ。

本書の通奏低音となっているのは、「至福の瞬間」とでも言うべきもののことで、それは人の生に不意に訪れる、ある幸福な瞬間のことを指すものであるらしい。グルニエ曰く、それは作家に天啓をもたらすような瞬間であり、あるいは、人が自己を再認識するような瞬間である。

あくまでも「瞬間」であるというのがポイントで、この感覚は、得られたとおもったその次の瞬間には霧消してしまう。得られた理由も、どうすればまた得ることができるのかもよくわからない。ただ、この瞬間的な感覚こそが、人を生に結びつけ、生に陶酔させ、もっと生きたい、と人を強く駆動するのだ、とグルニエは語っている。

いつか夕方に、ポプラの並木の下を通って、私はそれらの高い枝がみんな一つにとけあっているのを見た。また、私は見た、ある正午を、太陽にまぶしく光る野原を前にして、そして素直にうなずいた。月光に照らされた廃墟を前にして、私は思った、人間は人間から受けつぐことができると、そしてこの受けついだもろいもので足りると。(p.34)
たしかに真実だと思われることは、人間が生まれるときから死ぬまでに遍歴しなくてはならないあの広大無辺の孤独のなかには、いくつかの特権的な場所、いくつかの特権的な瞬間が存在するということだ。それは、ある土地のながめが、われわれの上に何かの作用をおよぼすような、そんな場所、そんな瞬間をいうのであって、たとえば、それは大音楽家がありきたりの楽器に何かの作用をおよぼすようなもので、そのとき大音楽家は、正しくいえばその楽器を彼自身に啓示するのだ。勝手がちがって認識をまちがえるのは、すべての認識のなかでもっとも真実の認識である、なぜなら、そのとき人は自己を再認識するからだ、そして、見知らぬ町を前にして、わすれていた友人を前にしたようにおどろくとき、その人がながめるのは自己のもっとも真実に近い映像である。(p.78)

きっと誰の人生にも、そんな瞬間が、人間の「広大無辺の孤独」とこの世界の無意味さとを認識しつつも、それでも自身の生を全面的に肯定するような、そんな至福の瞬間が、訪れるときがあるのだろう。そんな真実の瞬間こそが、人を生きさせることができる、というのは、俺にも少しは理解できるような気がする。

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…ところで、いま書いていておもったのだけれど、グルニエがまどろっこしい文体で書いていることは、保坂和志が『猫の散歩道』で書いていたのと同じようなことであるのかもしれない。

自然というのはすごい力を持っていて、ああでもないこうでもないと難しいことを考えていても、海面にきらきら反射する光を見ると、「結局、俺が知りたかった答えは、この光だったんじゃないか」と、簡単に納得してしまう。だから私にとって自然はもうほとんど無条件な信頼の対象なのだ。(保坂和志『猫の散歩道』 中央公論新社 p.10)
働いたら充実感が得られるなんて大間違いで、人生の充実感とは究極的には、江ノ電の駅のベンチにずうっと座って、海や山や空を眺めているときに得られるようなものなのだ。 外の人は、そのときの光を崇高で特別なものとイメージするだろうが、あるのはありふれた光だけだ。それで充分なのだ。(保坂和志『猫の散歩道』 中央公論新社 p.10)

グルニエのいう、「まぶしく光る野原」や「月光に照らされた廃墟」、「ある土地のながめ」、「見知らぬ町」というのは、保坂のいう「海面にきらきら反射する光」であり、「海や山や空」であり、「ありふれた光」のことなのではないか。

これをざっくりまとめてしまうと、やはり人間というのは自然のなかの一存在なのであって、自然というものを余計な理由づけや解釈などなしにそのまま受け入れることができたときにこそ、生の充実を感じることができる、言い換えれば、この世界に存在するということをただそのままに認識し受容できたときにこそ、幸福を感じることができる、そういった存在なのだ…ということになるのかもしれない。

猫の散歩道

猫の散歩道

  • 作者:保坂 和志
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/02
  • メディア: 単行本