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『はだしのゲン 私の遺書』/中沢啓治

はだしのゲン わたしの遺書

2012年に73歳で他界した、『はだしのゲン』の著者、中沢啓治が自身の半生を振り返ったエッセイ。6歳で被爆を経験した際の生々しい体験から、戦後の広島で必死で生き延び、怒りに燃えて原爆漫画を描くようになり、やがて世間にそれが受け入れられていくさまが書かれている。体調を崩し、筆を折った中沢は、あたかも「遺言」のように、「原爆によって、人間がどういうふうになるか」ということを自らの被爆体験を通して語っている。

中沢は、自分の作品のベースにあるのは、端的に「怒り」であると言う。それはつまり、「戦争や原爆について、日本人は自らの手で責任を追求し、解決しようとしているか?否、何一つされていないではないか!」という怒りだ。だからこそ、原爆被害の実態をリアルに伝えるべく、『はだしのゲン』のような、漫画でありながらも相当に生々しいスタイルの作品を生み出したのだ、というわけだ。

原爆漫画の第一作、『黒い雨にうたれて』について、中沢はこう語っている。

ぼくは主人公に「神」とかいて「ジン」と読ませる名前をつけて、神が裁くという思いをこめました。「おれがなぜこんなことをやるかといったら、おまえたちが広島ですさまじい残虐な殺りくをやったじゃないか。原子爆弾を利用して実験したじゃないか」、そういう思いをジンにたくしました。ジン=中沢啓治です。あれが、ぼくの本音です。
こういう思いは被爆者はみんな持っているはずなのです。けれど、表立っては言わない。それまで原爆を扱った文学作品などは「原爆を受けて悲しい」という論調のものが主流でした。「あれは戦争だから、しょうがない」と。ぼくはそれではいかんと思いました。「エレジー(哀歌)」ではだめなのです。絶対に「怒り」なのです。「しょうがない」で逃げられる問題ではない、とことんこれを問題にしなくちゃいけないと思いました。

たしかに、原爆を扱った作品で、「怒り」を全面に押し出した作品というのはいまなおあまり多くないようにおもえる。かわいそうな、薄幸の、不可避的な悲劇の運命の主人公たる原爆被害者、というステレオタイプな描写に留まることなく、自らの本音の「怒り」を国家にまで接続すること。そして、国家の責任をも射程に入れて、「とことんこれを問題に」すること。そのためにこそ、中沢は過激でリアルな作品を書き続けていたのだろう。

また、中沢は6歳のときに被爆したためか、原爆が落ちた日の情景をいまでもありありと覚えている、と述べている。「映画のセットをつくれと言われればつくれるほど、ここに死体がこんなふうにあって、うめいていたとか、そういうことが客観的に頭の中に入っている。左右にどういう死体が並んでいたとか、即座にばーっと浮かんできます。」という。6歳といえば、人間の脳が90%完成する、などと言われている年齢だけれど、そんなタイミングで原爆地獄に投げ込まれ、そこでサバイブするという経験をしたことが、中沢の世界観、人生観を否応なしに規定していたのだろうことは想像に難くない。…というか、ある意味では、当時6歳という子供であったからこそ、中沢は生涯に渡って純粋な「怒り」を保ち続けることができた、とかんがえることもできるのかもしれない。

現代の日本で生活している限り、目の前の死体を見るという機会はそのものがほとんどない。親戚や知り合いが亡くなったときに、病院や葬儀場で見るくらいだ。そうかんがえるだけでも、死というものに対するリアリティ、死をばら撒く原爆というものに対するリアリティが、中沢やその世代の人たちとは、あまりにも根本的に異なっているのだということを感じざるを得ない。

ぼくの座右の銘は、「一寸先は、闇」。いつか原爆の症状が出るんじゃないかという不安から、死と背中合わせに生きてきたので、徹底した現実主義者になりました。
ぼくは、原爆地獄の中で、あまりにもたくさんの死体を見すぎてきました。だから、人間というのは、死ねば、ああいう死体になって、骨が残るだけ、なんとむなしいものだろうという、しらっと開き直ったような無常観みたいなものが、強烈にあるのです。 六歳であの地獄を見ればねえ、人間がどうなるかってわかるわけです。
非常に冷めたものの見方をするませたガキになりました。冷ややかに物を見る、そんな死生観が身につきました。