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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『果てしなきスカーレット』

作品概要・所感

デンマークの王女スカーレットは、幼くして父王を失う。叔父のクローディアスが王位を手に入れるため、無実の罪を着せて処刑したのだ。スカーレットは父の復讐を試みるも、逆に毒杯を飲まされてしまう。気づいたとき、彼女は「死者の国」なる世界にいたのだった。父の仇も取れず、何のための人生だったのかと絶望するスカーレットだったが、クローディアスもまた、この「死者の国」にいるらしいと知る。現世では果たせなかった復讐という目的だけを頼りに、彼女は荒廃した世界を歩き始めるのだが…!

ネット上では恐ろしいほどの低評価が横溢し、一方でその逆張りのような絶賛もときおり見受けられる、細田守監督の最新作。そこまで言われるものなのか…?と、逆に興味が湧いて見に行ってきたのだが、自分の率直な感想としては、「想像以上にしっかり楽しめる、誠実な姿勢で作られた、ヤングアダルト(YA)映画」という印象だった。

初期の細田作品(『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』など、奥寺佐渡子が脚本を担当していた頃)が「児童文学」的な特徴を持ったものだったとすれば、『果てしなきスカーレット』はもう少し年齢層を上げた「YA文学」的な手触りの作品だと言っていいだろう。その違いを挙げてみれば、外向きの成長から内面の葛藤へ、共同体の肯定から孤立へ、明るく開かれた空から閉鎖環境での地獄巡りへ…といったところだろうか。

こうした変化が、本作を観た少なからぬ観客にとって、「違和感」として受け取られたというのは確かなことだろう。ただ、それは作品の出来不出来以前のもの、観客が事前に抱いていたイメージや期待感とのズレ、ギャップとでも言うべきものではないか。その「違和感」を単なる「欠陥」として切り捨ててしまう前に、もう少し丁寧に読み解こうとしてみてもよいのではないか?というのが自分の意見である。

では、その「違和感」とは、具体的に作品のどの辺りから生じているのか。以下、やや擁護的なスタンスにはなるが、本作の具体的な表現や構造を見ていきたい。

本作の「違和感」は、本当に「欠陥」なのか?

本作については、さまざまな批判が見受けられる。個人的な観測ではあるが、多くの観客が「違和感」を覚えたと指摘しているのは、とくに以下のような点ではないか。

  • ご都合主義的な「死者の国」という舞台装置
  • 「説明的」すぎる台詞
  • 唐突なミュージカルシーンの挿入
  • 聖というキャラクターの一貫性のなさ

しかし、これらは本当に本作の「欠陥」でしかないのだろうか?以下、それぞれについて考えてみたい。

ご都合主義的な「死者の国」という舞台装置

本作の舞台である、生と死、過去と未来が入り混じる「死者の国」については、その正体や成り立ちが作中で明確に説明されることがない。そのため、この世界そのものが、物語の展開のために都合よく用意された舞台装置に見えてしまう、という面は少なからずあるだろう。

「死者の国」について、一見して考えられる解釈としては、それが「スカーレットの精神世界」であるとか、「時空を超えて生と死が溶け合い混じり合う、あわいのような場所」であるというものだろう。だが、これだけでは、クローディアスがスカーレットより後に死んだはずなのに、なぜすでに世界の王のように振る舞っているのか、という点を十分に説明できない。つまり、こういった解釈では、この世界が「物語にとって都合がよすぎる」印象は拭い切れないのだ。

そこで別の解釈として、「死者の国」を、「スカーレットがどう生き直すのかが問われる、試練の場として設計された世界」だと仮定してみたい。この世界で絶対的な力を持つドラゴンは、裁定者のような存在であるかのように見えるが、このドラゴンが、例えばデンマーク王家の守護神のような存在だったとしたらどうだろう。復讐に取り憑かれているスカーレットが、王たる資質を備えた主体へと変化できるかどうかを見極めるべく、彼女をこの世界へと呼び込んだ、そんな風に考えられないだろうか。

もしそうであれば、クローディアスがこの世界ですでに王のような立場にあり、スカーレットが地を這うような位置から出発するのも、現世での二人の関係性をそのまま誇張したものだと理解することができる。聖の存在も、単なる偶然やご都合主義というより、彼女に欠けていた価値観――復讐とは異なる生のあり方、他者への無条件の肯定――を突きつけるために配置された存在として考えれば納得しやすい。

そのような世界においては、時間の前後関係や因果の厳密さよりも、「いま彼女がどんな問いを抱えているか」こそが優先されるだろう。そのため、ドラゴンはしばしばスカーレットにとって都合のよいタイミングで現れるし、世界そのものも彼女の変化に合わせて姿を変えていくように見える。それは設定の雑さというより、この物語が、世界の整合性よりも一人の主体の変化を中心に据えて構築されていることの表れだということになる。

このように読み直してみれば、「死者の国」は単なる便利な舞台設定として存在しているのではなく、復讐に執着する少女が、自身の生き方そのものを問い直される過程を可視化するための装置として見えてくるのではないか。深読みしすぎのきらいはあるとおもうが、少なくとも、単なるご都合主義として切り捨ててしまう前に、そうした読みの可能性を考えてみる余地はあるだろう。

「説明的」すぎる台詞

次いで、キャラクターの台詞が「説明的」すぎるのではないか?という指摘について。これは、映像や表情で伝えられるはずのことを、わざわざ台詞で説明しすぎているのではないか、という違和感だろう。ただ、これを単なる演出の稚拙さとして片づけてしまう前に、本作がどのような表現形式を採用しているのか、確認しておく必要があるだろう。

本作は『ハムレット』の設定やモチーフを随所に流用しているが、それは同作が示した「問い続ける主人公」という型を借りているからだろう。『ハムレット』といえば、復讐に囚われた主人公が、「生きるべきか死ぬべきか」と苦悩し独白する物語だが、本作のスカーレットも同様に、自らの抱える問いを言葉にして確かめずにはいられない。本作の『ハムレット』的ムードは、登場人物の感情や葛藤をダイレクトに言語化するためのフォーマットとして機能しているようにおもえる。

老婆が世界観を解説したり、聖が人生に関する疑問を語ったり、スカーレットが内面を口に出して葛藤する場面なども、シェイクスピア劇における狂言回しや独白を意識した演出だと考えれば理解しやすい。心理を台詞によって直接提示する、古典的な演劇の作法が持ち込まれているのだ。(もっとも、本作の台詞はすべてがど直球なので、シェイクスピア的な深みや難解さといったものは無縁である。)

スカーレットにとって内面の問いとは、とりあえず棚上げしておけるようなものではなく、いますぐ言葉にして確かめずにはいられない、という切実なものだ。その独白の多くは、整理された思考というより、怒りや悲しみが剥き出しのまま噴出したものに見える。しかし同時に、それは単なる感情の放出には留まらず、意味を探し続ける思考のプロセスそのものとして機能してもいる。彼女は問い続けることで、自分の感情と思考を確かめようとしているのだ。この流れを明確に表現すべく、本作はあえて不自然にさえ見える、演劇的で「説明的」な語りを採っているのではないか。

スカーレットの「説明的」な語りは、観客に、「なぜそこまで言葉で内面を説明するのか?」と違和感を与え得るものではあるが、まさにその違和感、その過剰さこそが、彼女の抱える葛藤の切実さをそのまま示している、ということになるだろう。

唐突なミュージカルシーンの挿入

「唐突な現代の渋谷でのミュージカルシーン」も、その不自然さを指摘される場面だろう。16世紀デンマークから「死者の国」へと続いてきた物語の流れを踏まえると、時代も様式もあまりに飛躍しており、強引に見えるのは間違いない。

ただ、この場面が象徴しているものは明快だろう。復讐という唯一の生き方に固執してきたスカーレットが、はじめて「別の生き方を想像する」その瞬間を、そのまま鮮やかなイメージとして映像化した、というだけだからだ。スカーレットは、「死者の国」を旅していくなかでもなお、別の生き方をおもい描くことなどできないでいる。極限まで追い詰められた内面を抱えた彼女が、自分自身を復讐から解放し、別の選択肢へと向かうためには、この想像上の跳躍――目の前の現実をいったん切断した、時代も場所も様式もまったく異なるイメージへの跳躍――がどうしても必要だったのだ。

物語の転換点となる重要な場面を、中途半端な表現で済ませるのではなく、あえて突き抜けた、観客の記憶に強く残るシーンとして描く。その判断自体は正当なものだとおもうし、本作の観客がこのシーンのことを忘れるということはないだろう。

聖というキャラクターの一貫性のなさ

博愛主義者の看護師、聖。彼は登場時から、誰に対しても分け隔てなく手を差し伸べる、「博愛」の人として描かれる。執拗なまでに「殺すな」と言い続け、暴力を否定する姿勢も一貫している。しかし物語の終盤、彼はその信念を裏切るかのように、スカーレットを守るため自ら手を汚す。これを人物描写の一貫性のなさ、あるいは設定上の矛盾だと感じる観客もいるだろう。

だが、この変化は矛盾というよりも、むしろ最初から彼の内に孕まれていた、「博愛」というものの限界が露わになった瞬間だと考える方が自然だろう。当初、聖は「死者の国」で出会う人すべてを救おうとする。しかし物語が進むにつれ、彼はそのような抽象的な善よりも、スカーレットという具体的な一人の存在を選び取ることになる。

愛とは本来、排他的なものだ。誰かを等しく愛そうとすることはできても、命を賭けて守る対象は、結局のところ一人しか選べない。だから聖の選択は、「博愛」という理念が、現実の関係性のなかでは必ずどこかで歪んできてしまうという、その具体的な現れだと言えるだろう。

ここで重要なのは、彼の死がスカーレットの成長のための犠牲として回収されるのではなく、彼自身が選び取った愛の帰結として描かれている点だ。聖は自覚的に自らの信念から離れ、ひとりを愛することを選び、その結果として命を失う。その選択は、ごく未完成で、だからこそ人間的なものだ。そしてそれは、彼自身の物語として完結してもいる。彼の死は、単にスカーレットの物語に従属した死として意味づけられるだけのものではなくなっているのだ。

このように見ていけば、聖というキャラクターの揺らぎというのは、作品上の「欠陥」ではなく、本作が描こうとする「愛」の切実さの、最も端的な現れだったと言うことができるはずだ。

自分を「赦し」、自分の人生を引き受ける

これまで見てきたような多くの飛躍や揺らぎの先で、「赦す」という課題がはっきりと姿を現してくるだろう。物語後半では、父王がスカーレットに遺した「赦せ」という言葉が重要なモチーフとして繰り返し示されるが、それは単に仇であるクローディアスを「赦す」ことではなく、復讐に囚われ続けてきた自分自身とどう向き合うのか、という問いへと少しずつ意味をずらしていくことになる。自分で自分を「赦す」ことができない限り、復讐は果てしなく続く。復讐に囚われている限り、自由に考え、生きることなどできはしない。物語の最終局面でそのことに気づいたスカーレットは、ついに自分を「赦し」、自分を愛することへの第一歩を踏み出すことになる。

では、スカーレットはどのようにして自分を「赦す」ことができるようになるのか。それは、何か決定的な一つの出来事によってではない。彼女は、「死者の国」でのさまざまな出会いや経験を通して、少しずつ、復讐とは異なる生き方の可能性を見出していくのだ。

スカーレットは、「渋谷でのミュージカルシーン」から、自分のあり得べき姿を見出せたように感じたり、聖の優しさや体温に触れて、いままで知らなかった感情を知ったりする。また、少女の「わたしたちみたいな子供が、死なない世界にする」という言葉にはっとして、それが自分の本当の使命なのかもしれない、と考えたりもする。

そうした瞬間ごとに、愛の意味ってもしかしてこういうこと?人生の意義ってもしかしてこういうこと?と即座におもってしまう、その未成熟さ、信じやすさ、柔らかさこそが、まさにスカーレットというキャラクターの魅力だと言っていいだろう。そしてまた、彼女のそういった考え方が本来的に間違っているということもないはずだ。所詮、自分の人生の意味づけなど、そのように自分自身が腑に落ちたタイミングでえいやと決めつけ、半ば強引に引き受けていくことしかできないものなのだから。

粗さもあるが、誠実さが美しい作品

随分長々と書いてきてしまったが、本作は決して手放しで賞賛できるようなタイプの映画とは言えないだろう。劇中歌の歌詞のダサさ、群衆描写の不自然さ、「良い子ちゃん」や「ボロ雑巾」といった用語チョイスの違和感、エンディングの演説シーンの雑さなど、個人的にも「これは擁護が厳しいかな…」と感じるポイントも少なくはない。ウェルメイドな映画とはまったく言えない、明確に粗さもある、作家性の強い作品だということは間違いない。

しかし、殺伐として屈折した作品たちが強い存在感を放っているこの現代において、登場人物自身に、「何のために人は生きる?人生は何のためにある?」と問いかけさせたり、「最低の世界だからこそ、ほんの少しでも信じられる何かが欲しくてたまらない」と吐露させたりする、そのストレートさ、直球勝負感というのは、俺は好きだなとおもえるものだった。愛、自由、理想、平和…こうした小恥ずかしさを引き受けた上で、なおそれを語ろうとする姿勢そのものが、本作のもっとも誠実で美しい部分ではないかと、そんな風に感じたのだった。

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「運」/芥川龍之介

作品概要・所感

若い侍と陶器師の翁が会話している。翁曰く、かつてこんな話があったのだという――。

貧しさに苦しむある女が、観音様に「どうぞ一生安楽に暮らせますように」と祈願する。すると観音様は「この後云いよる男がいるから、その男の云う通りにしなさい」とお告げを下す。やがて男が現れ、女を八坂寺の塔へ連れ込んで一夜を共にし、絹を渡して妻にする。翌日、男が出かけた隙に塔の内部を探索した女は、この男が盗人であることに気づく。そこで女は絹を持って脱出を試みるが、見張りの婆さんと激しく揉み合ううちに、婆さんを殺してしまう。なんとか逃げ出した女は知人を頼って身を寄せ、男から貰った絹を元手に生活を立て直すことに成功する。そうして知人の家から、盗人の男が検非違使に捕まる様子を眺めるのだった…。

話し終えた後、翁は「こんな運はまっぴら」だと言い、若い侍は「私なら、二つ返事で、授けて頂くがね」と言う…!

こんな風に書いてみても、なかなか掴みどころのない作品である。これは要するにいったいどういう話なのか。

「運の善し悪し」とは何か、誰が決めるのか

翁がひとしきり物語を語った後、若侍と翁は、この女の「運」について論じ合う。

「神仏の御考えなどと申すものは、貴方がた位の御年では、中々わからないものでございますよ」
「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね」「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善し悪しと云う事が」
「だって、授けて貰えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて」
「私には運の善し悪しより、そう云う理屈の方が、わからなそうだね」(p.60)

若侍からすれば、結果的に「一生安楽に暮らす」ことができるようになったのだから、それは「善い運」だったに決まっているじゃないか、ということだろう。一方、翁が言っているのは、たとえ結果的に財産を得て安楽に暮らせたとしても、その過程で盗人の妻になり、人を殺してしまうような「運」を、手放しで「善い」とは呼べない、ということであるようだ。若侍は結果を重視し、翁はプロセスの道徳性を重視する。ふたりの価値観は根本的に異なっているので、会話は平行線を辿っていくことになる。

また、「運」を授けてもらう、「運」に身を委ねるということは、つまり自分の主体性を、自身によるコントロールを手放すということでもあるだろう。手放してしまったが最後、その「運」がもたらすことになる結果――価値観や考えようによって、善いとも悪いとも言える、いわば善し悪しが混在した結果――を、まるごと受け入れる以外の選択肢がなくなってしまう。だから、翁が「こんな運はまっぴら」と言うのは、この点にも関わっているのかもしれない。自分ではコントロールできない「運」に身を委ねてしまえば、殺人や汚れまで背負わされかねない、そのような不確実性には耐えられない、というような。

そのように考えていくと、この短編で扱われているのは、「運」という曖昧な言葉を巡る価値観や認識のズレだということはできそうだ。結果さえよければ「善い運」なのか、それとも、その過程までも含めて「善し悪し」を判断すべきなのか。その後の運命を受け止められるかどうかもわからないのに、「運」に身を委ねてしまってもよいものなのか…。こういった疑問について、何かしらの答えを出そうというのではなく、ただ問いを投げかけるだけに留めることで、本作はどこかすっきりと割り切れない、宙吊りのような読後感を残す作品になっている。

『ピノッキオの冒険』/カルロ・コッローディ

作品概要・所感

ディズニーアニメでも有名な『ピノキオ』の原作。1883年の作品だ。ディズニー版のピノキオは、基本的には純粋で無邪気な子供、という感じだけれど、本作におけるピノッキオは、もうはっきりとガチな悪ガキである。ひたすらに自分勝手で、誘惑にはめっぽう弱く、猥雑なエナジーに溢れまくっているのだ。

もちろん、ただそれだけのキャラクターだというわけではなくて、彼の内面に善性や崇高さといったものが宿るタイミングもある。でもそれらは、まるで整理されておらず、その場の気分ひとつで、どの側面が顔を出すかが変わってしまう。さすが、喋る「一本の棒っきれ」から削り出されたあやつり人形と言うべきか、すべてが荒削りなのである。人格からしてぜんぜん未統合な、剥き出しの生命力の塊という感じなのだ。

たとえば、ディズニー版ではピノキオの良心として活躍するコオロギ(ジミニー・クリケット)に対しても、この原作においては、ピノッキオはこんな野蛮な振る舞いをしている。コオロギが、ピノッキオに道徳や勤勉を説こうとした直後のシーン。

「気をつけてモノを言え、このくそったれのでぶコオロギ!……ぼくをあんまり怒らすと、ひどい目に遭うぞ」
「哀れなピノッキオ!お前さんが不憫でならないよ」
「どうして不憫なんだ」
「なぜかって?そりゃ、お前さんが木の人形で、おまけに脳みそまで木でできてるからだよ」
この最後の言葉を聞くと、ピノッキオはカンカンになって跳びあがり、台の上にあった木槌を取って、お話するコオロギに投げつけた。
たぶん、ピノッキオだって、本気でぶつけるつもりはなかったはずだ。だが、まずいことに、木槌はコオロギの頭にまともに当たってしまった。気の毒にコオロギは、クリッ、クリッ、クリッとかすかに息もたえだえに鳴くと、壁にはりついたまま死んでしまった。(p.29-30)

あわれコオロギは、最序盤で悪童ピノッキオに秒殺されてしまうのだ。(ちなみに、コオロギの登場から死亡まで、わずか4ページである。)

誘惑に負け続けるピノッキオの魅力

ピノッキオの行動パターンは一貫している。誘惑に出会う→負ける→災難に遭う→反省する→また誘惑に負ける…。この繰り返しなのだ。

なんで、悪い仲間の言うことなんかに耳を貸したんだろう。いつだっって、厄介ごとしか持ってこない連中の言葉なんかに。……先生だって、おかあさんだって、いつも言ってたんだ。『悪い仲間には、きをつけなさい』って。だのに、ぼくはわがままで、意地っぱりで……みんなの言うことなんか聞かず、いつもがんこに自分の勝手を押しとおしちゃった。だから、こうやってバチがあたるんだ。……こんな風だから、生まれてからずっと、ぼくはたった十五分さえ平和に暮らせたためしがないんだ。ああ、神さま!ぼく、どうなっちゃうの、どうなっちゃうの、どうなっちゃうの……」(p.184)

何かをやらかして追い詰められるたびに、ピノッキオはこんな風に嘆いてみせる。彼はこの瞬間には本気で反省しているのだが、またその次の瞬間には本気で誘惑に負けてしまうので、すぐに似たような過ちを繰り返してしまうことになる。まあそう簡単に性格というのは変えられないものだ、ということかもしれない。

そういうわけで、ピノッキオは、「簡単に金を増やす方法がある」と唆すキツネとネコにころっと騙されては縛り首にされてしまったりするし、せっかく人間になれそうになっても、その願いを叶える寸前で、悪ガキの友人に誘われるまま「おもちゃの国」なる"理想郷"へ行ってしまっては、そこでロバにされてしまったりもする。

ピノッキオは基本的に非力な木製の人形にしか過ぎないので、自らの愚かなふるまいの結果をまったく無防備な状態で引き受けることになり、大抵の場合、瀕死の大ダメージを受ける。そうしてぼろぼろになり精根尽き果てたところで、青い髪の仙女やマスチフ犬といった善意の助力者が出現し、彼らの援助によってなんとか立ち直り、ふたたび前進していくことができるようになる。

そうして長い旅路の果てに、巨大なサメに飲み込まれ、その腹のなかで「父親」であるジェッペットと再会することになる。これは明確に聖書のヨナ記を思わせる場面だけれど、サメに飲み込まれるという象徴的な死を経験し、しかしそこでの苦闘を経ることで成長し、再生へと向かっていく(人間になる)、という流れになっていくわけだ。

 *

ということで、本作の物語は、本来あやつられる運命にあるはずのあやつり人形が、その猥雑なエナジーでもって自らの定めに抗い続け、ついには人間としての自由を獲得するまでの旅路を描いたものだ、ということができるだろう。もっとも、その道程というのは上述のように相当に行き当たりばったりなものであって、物語のエンディングにもデウス・エクス・マキナ的な強引さがある。

だから、本作の魅力はそういった、「ピノッキオの成長」というビルドゥングスロマン的な展開というよりは、「ピノッキオの成長しなさ」の方にあるようにおもえる。読者は、危機をようやく脱したピノッキオがすぐさまものすごい勢いで次の危機へと突っ込んでいくようすを見て、おいおいまたかよ、と突っ込みを入れたり呆れたりしつつも、でもそんな彼の姿――自らの欲望に正直過ぎ、意思が弱すぎ、あっという間に誘惑されてしまう――をなんだかかわいらしくおもえてきてしまうのだ。

訳者の大岡による「解説」曰く、賭博癖があったコッローディは、賭博の借金とフィレンツェ県庁を退職したことによる金銭的不自由を理由に、「まったく乗り気ではない状態」で本作を書き始めたらしい。彼には賭博癖の他にアルコール依存の気もあったらしいけれど、ともあれ、コッローディ自身の誘惑に対する弱さ、というのがピノッキオというキャラクターには存分に反映されており、だからこそピノッキオの弱さには妙にリアリティがあって魅力的に感じられる、というところはあるのだろう。

『トンネル』/ベルンハルト・ケラーマン

作品概要・所感

先日のエントリ(『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』/乗代雄介)で書いたとおり、手塚治虫は本書から『地底国の怪人』の着想を得たと公言していたらしい。巨匠手塚がそこまではっきり推している作品ならばチェックしてみるか!とおもい、早速読んでみることにした。

『トンネル』は、ドイツ人作家ベルンハルト・ケラーマンの1913年作。第一次大戦前に書かれた小説だ。エンタテインメント性たっぷりで、読者を飽きさせることがまったくない、まさしくページターナーという感じの一作である。

アメリカ人建設技師のマック・アランは、自ら発明した「アラニット鋼」なる超硬質の素材を用い、アメリカとヨーロッパを結ぶ海底トンネルを建設するという壮大過ぎるプロジェクトを立ち上げる。この計画には巨大資本が投入され、世界中から投資家や労働者が集結してくる。そうして世紀の大工事が始まるわけだが、工事が進行するにつれ、数々のトラブルが発生する。現場では大落盤が起こり、トンネル内は地獄絵図と化す。やがて人々はマック・アランを敵視するようになり…!

といった具合なのだけれど、大落盤の後の展開もとにかく大盛りで、労働者たちの暴動、ストライキ、財務担当者による資金の使い込み、恐慌、事業閉鎖、破産、火災、裁判、そこからの復活…と目まぐるしい。そのなかで、トンネル事業のプロジェクトは、工事現場そのもの以外にも、投資や雇用、資金運用、メディアを利用した宣伝、労働者たちの街の建設…といった周辺のビジネス、経済活動についてまで濃密な筆致で描かれていく。そうして、資本と労働によって駆動される金融資本主義という巨大なシステムの働きを浮き彫りにしていくのだ。

上述のように物語の展開は壮大ではあるものの、設定はシンプルで、登場人物たちはいずれも類型的である。いかにもエンタメ小説という感じなのだが、それが作品全体にスピード感をもたらすのに貢献してもいる。狂気のように進行していくトンネル工事のように、もうとにかく疾走感に溢れているのだ。

トンネル事業に取り憑かれた男

主人公のマック・アランは、トンネルを完成させるという執念だけをただひたすらに燃やし続ける男であり、物語――アランがトンネル事業に捧げる26年間が描かれる――を通じて成長らしい成長を見せることはない。次々と襲いかかる困難をひとつひとつ乗り越えていこうとするなかで主人公が成長していき、作品の始まりと終わりとで彼がある意味違う人間になっている、というのが物語のひとつの型であるけれど、本作にはそれは当てはまらない。無数に訪れる難局やトラブルを解決するのはアランの努力もあるけれど、それ以上に資本、金の力であり、労働力、民衆の力なのだ。アランの意志力は物語の冒頭から最後まで大きく変化することはなく、世のなか(というのは、つまりは金と労働力である)がそれを受け入れるかどうかによって、ストーリーが動いていく。

そういう意味で、マック・アランは物語の主人公に相応しい、強固な信念を持った人物でありながら、決して典型的な英雄ではない。ただ、トンネルを完成させたい、という野望だけを滾らせ、そのことだけに全精力を注ぎ続ける、極めて単純な男なのである。彼の内には、金儲けや名声といった別の欲望はもはやなく、あるのはただトンネルの完成だけを求める、恐ろしく強烈なエゴだけなのだ。

「私はマック・アランだ、諸君はよく知っている。三千人の人を私が殺したと諸君は叫んで言われる。けれどもそれは嘘だ。運命の方が一箇の人間よりも力強い。三千人を殺したのは、あのトンネルの労働だ。労働は地球上で毎日何百人という人を殺す。労働は戦争だ、戦闘が行われれば死人ができるのは通例だ。諸君も知っていられる通り、紐育だけでも、労働は毎日二十五人の人を殺す。けれども誰一人紐育で労働をやめてしまおうなどとは考えない。海は毎年二千人を殺す。しかも誰一人として海上の労働をやめようなどと思う者はいない。トンネルメン、諸君は友人を失った。それを私はよく承知している。その私も友人をなくした……ちょうど諸君の通りだ。私と諸君とは労働の上の同僚であると共に、また損失の上から言っても同僚なのだ。トンネルメン……」(p.299-300)
「私自身一箇の労働者だ。」とアランは喇叭から叫んだ。「トンネルメン諸君、私は諸君と同様一労働者だ。私は卑怯者は大嫌いだ。卑怯者はどしどし行ってしまえ。けれども勇気のある者は残ってくれ。労働は単に腹いっぱい食うための、ただの手段なんかじゃない。労働は理想だ。労働は現代の宗教だ。」(p.300)

クレイジーな男だとしか言いようがないが、周囲を一切顧みずにただトンネル事業だけにこだわり続けるその姿は、常人には決して放つことのできない、異様な輝きを帯びてもいる。この男を前にして、読者は彼を肯定すべきか否定すべきか、どちらにも割り切ることができないのだ。

トンネル事業に凝縮された資本主義の恐怖

もっとも、問題はアラン個人の資質だけにあるのではない。本作では資本や労働といったものの暗部についてもたっぷりと描かれている。というかむしろ、トンネル事業はあらゆるものを吸い込む暗闇のようで、資本主義がこの世界と人々を丸ごと呑み込んでいく狂気をそのまま表しているかのようでもある。

大分の人間には、時と金と勇気がない。人生はこの連中に一顧をも与えない。この連中は地球のまわりを轟々とまわっている調革に捲き込まれて、慄え上がったり息を詰まらせたりすれば、すぐに振り落とされて微塵に砕ける。しかも誰一人としてこれを顧みる者もない。いや他人のことを心配する時間も、金も、勇気も、持ち合わせがないので、同情なぞということは一つの贅沢となったのである。古い文化は破産した。(p.145)
人生は暑苦しく、眼まぐるしい。気違いじみて殺人的だ。空虚で無意義だ。何千人の人間は呆れ返って、人生の希望を放擲している。どうか一つ、新しいメロディが欲しい。古臭い流行歌はもうまっぴらだ。 アランは新しいメロディを民衆に与えた。鉄と、飛び跳ねる電気の火花との歌である。これこそ我らの時代の歌だ、と民衆は膝を打って、頭上を走る轟々たる高架鉄道の音を聞いては、アランの峻厳なタクトを耳にしていると感じた。( p.145)
見ればそのトンネルメンというのは、なるほど坑から出たらしい黄色い顔で、頑丈な手で、背中を曲げて、重たい長靴を引きずって、どしどし行く。恐怖という雰囲気をトンネルから一緒に持ってきた連中だ。この大勢が、みんなあの暗い地下道にいたのだ。トンネルの中では、その友達を死神に取られてしまったのだ。この大勢の行列からは鎖のがらがら言う音が聞える。すべての権利を奪われた悪人や罪人の匂いがする。(p.307)

トンネル工事という世紀のプロジェクトの背景には、無数の人々の生があるわけだが、彼らは否応なしにその巨大な力に巻き込まれていってしまう。そうして資本の歯車の一部となった労働者たちは、自らの存在すら顧みられない過酷な現実に直面させられることになる。鎖に繋がれ、すべての権利を奪われ、「黄色い顔で、頑丈な手で、背中を曲げて、重たい長靴を引きずって、どしどし行く」他ないのだ。

本作は100年以上前に書かれた小説だけれど、ここにはすでに、個人の意志など無視してあらゆる人々を呑み込んでいき、誰にも止めることなど叶わない、そういった資本主義というシステムの恐ろしさが確かに描かれているようにおもう。

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『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』/乗代雄介

作品概要・所感

乗代がデビュー前から15年以上にわたって書き継いできたブログ記事を改稿・整理したという一冊。前半の実験的な掌編群(「創作」)はちょっと乗りにくかったのだけれど、後半のエッセイ(「ワインディング・ノート」)と中編小説(「虫麻呂雑記」)はそれなりに楽しく読むことができた。作者の思考の軌跡をじっくり辿っていく感じの後半パートは、乗代の小説を読んだことがある人ならばきっと興味深く読み進められるだろう。

「全て」外から来たに決まっている

先日読んだ、菅付雅信『インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』には、アウトプットのためには大量のインプットがとにかく必須である、と書かれていたが、本作でもちょうどそんな話が扱われていた。

手塚治虫は、20世紀ドイツの作家、ベルンハルト・ケラーマンの『トンネル』に影響を受けて『地底国の怪人』を描き、かつ、『トンネル』から受けた影響についても包み隠さずに語っていたのだという。乗代は、この手塚の姿勢について、以下のように評価している。

だから、「好きだったな」ではなく詳細に語っているということは「証言」として非常に重要で貴重なわけです。 で、こんなことを言うと、世間には「いやわかってますよ。オレも、ぜんぶ自分で書いたなんて思ってないです。いろんなもの読んで、影響受けて、それでオレが考えて、書いて、この作品になったんです。オレの作品のほとんどは、外から来たようなもんです。手塚先生にも感謝してます。パクツイはカスのやることだ」などと言う輩が大勢いることでしょう。 でも、それがちがうんです。そんなものは「全て」外から来たに決まっているだろうがと僕は言いたいのです。精子だったり卵子だったりしたくせによく言うよ、と。 手塚治虫はシンプルにこう言います。「インプットがないのに、アウトプットは出来ません」全て外から来たのだと言い切れる者だけが、全世界を異郷として自覚するのであり、その「土壌」をぎんみするのであります。 (p.458-459)
表現者としての人間は、雑多な影響をわが身に合成されたキメラであることを避けられません。客観的に眺めてみると、それは引用の塊であるわけで、極論すれば、異常にグロテスクな姿です。
しかし、目をつぶれば、そこには統合された自分というものしかいなくなる。そうやって固定され、やっと信じられるものが「個性」の正体ではないでしょうか。 (p.491)

表現者の自己とは「全て」外部の影響を取り込んで合成したキメラであるが、それを自覚して(目をつぶって)アウトプットし続けていくことでしか「個性」はあり得ない、ということだ。引用部のように、乗代はかなり熱く語っているのだけれど、正直に言えば、この「オリジナリティとは何か」みたいな話は、まあよく聞く話かなという感じはする。古典的な問いだと言ってもいい。

たとえば、Austin Kleonが"Steal Like an Artist"で書いていたように、“Nothing is completely original”であるのだし、そもそも社会的な動物たる人間は、言語を他人から学習して用いるようになるのだから、「「全て」外から来たに決まっている」のだ。もっとも、乗代の文章は、その古典的な問いに対して、挑発的に、かつ、自身の創作経験に裏打ちされた「証言」として、その主張を打ち出しているところが魅力的だということはできるだろう。

自分だけのものなど、そもそもの始めからない。だからこそ、大量の、雑多な、異様にグロテスクな姿になるほどの、インプットが求められる。そしてそれは、インプットを消化する継続的なアウトプットと表裏一体のものでもあるだろう。本書のような、膨大な創作の蓄積を見ていると――本書は600ページ超の鈍器本であって、まさに長年にわたるインプットの影響とアウトプットの軌跡を隠さずに示した記録だと言える――そんなことを改めて考えさせられたりもしたのだった。

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