作品概要・所感
ディズニーアニメでも有名な『ピノキオ』の原作。1883年の作品だ。ディズニー版のピノキオは、基本的には純粋で無邪気な子供、という感じだけれど、本作におけるピノッキオは、もうはっきりとガチな悪ガキである。ひたすらに自分勝手で、誘惑にはめっぽう弱く、猥雑なエナジーに溢れまくっているのだ。
もちろん、ただそれだけのキャラクターだというわけではなくて、彼の内面に善性や崇高さといったものが宿るタイミングもある。でもそれらは、まるで整理されておらず、その場の気分ひとつで、どの側面が顔を出すかが変わってしまう。さすが、喋る「一本の棒っきれ」から削り出されたあやつり人形と言うべきか、すべてが荒削りなのである。人格からしてぜんぜん未統合な、剥き出しの生命力の塊という感じなのだ。
たとえば、ディズニー版ではピノキオの良心として活躍するコオロギ(ジミニー・クリケット)に対しても、この原作においては、ピノッキオはこんな野蛮な振る舞いをしている。コオロギが、ピノッキオに道徳や勤勉を説こうとした直後のシーン。
「気をつけてモノを言え、このくそったれのでぶコオロギ!……ぼくをあんまり怒らすと、ひどい目に遭うぞ」
「哀れなピノッキオ!お前さんが不憫でならないよ」
「どうして不憫なんだ」
「なぜかって?そりゃ、お前さんが木の人形で、おまけに脳みそまで木でできてるからだよ」
この最後の言葉を聞くと、ピノッキオはカンカンになって跳びあがり、台の上にあった木槌を取って、お話するコオロギに投げつけた。
たぶん、ピノッキオだって、本気でぶつけるつもりはなかったはずだ。だが、まずいことに、木槌はコオロギの頭にまともに当たってしまった。気の毒にコオロギは、クリッ、クリッ、クリッとかすかに息もたえだえに鳴くと、壁にはりついたまま死んでしまった。(p.29-30)
あわれコオロギは、最序盤で悪童ピノッキオに秒殺されてしまうのだ。(ちなみに、コオロギの登場から死亡まで、わずか4ページである。)
誘惑に負け続けるピノッキオの魅力
ピノッキオの行動パターンは一貫している。誘惑に出会う→負ける→災難に遭う→反省する→また誘惑に負ける…。この繰り返しなのだ。
なんで、悪い仲間の言うことなんかに耳を貸したんだろう。いつだっって、厄介ごとしか持ってこない連中の言葉なんかに。……先生だって、おかあさんだって、いつも言ってたんだ。『悪い仲間には、きをつけなさい』って。だのに、ぼくはわがままで、意地っぱりで……みんなの言うことなんか聞かず、いつもがんこに自分の勝手を押しとおしちゃった。だから、こうやってバチがあたるんだ。……こんな風だから、生まれてからずっと、ぼくはたった十五分さえ平和に暮らせたためしがないんだ。ああ、神さま!ぼく、どうなっちゃうの、どうなっちゃうの、どうなっちゃうの……」(p.184)
何かをやらかして追い詰められるたびに、ピノッキオはこんな風に嘆いてみせる。彼はこの瞬間には本気で反省しているのだが、またその次の瞬間には本気で誘惑に負けてしまうので、すぐに似たような過ちを繰り返してしまうことになる。まあそう簡単に性格というのは変えられないものだ、ということかもしれない。
そういうわけで、ピノッキオは、「簡単に金を増やす方法がある」と唆すキツネとネコにころっと騙されては縛り首にされてしまったりするし、せっかく人間になれそうになっても、その願いを叶える寸前で、悪ガキの友人に誘われるまま「おもちゃの国」なる"理想郷"へ行ってしまっては、そこでロバにされてしまったりもする。
ピノッキオは基本的に非力な木製の人形にしか過ぎないので、自らの愚かなふるまいの結果をまったく無防備な状態で引き受けることになり、大抵の場合、瀕死の大ダメージを受ける。そうしてぼろぼろになり精根尽き果てたところで、青い髪の仙女やマスチフ犬といった善意の助力者が出現し、彼らの援助によってなんとか立ち直り、ふたたび前進していくことができるようになる。
そうして長い旅路の果てに、巨大なサメに飲み込まれ、その腹のなかで「父親」であるジェッペットと再会することになる。これは明確に聖書のヨナ記を思わせる場面だけれど、サメに飲み込まれるという象徴的な死を経験し、しかしそこでの苦闘を経ることで成長し、再生へと向かっていく(人間になる)、という流れになっていくわけだ。
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ということで、本作の物語は、本来あやつられる運命にあるはずのあやつり人形が、その猥雑なエナジーでもって自らの定めに抗い続け、ついには人間としての自由を獲得するまでの旅路を描いたものだ、ということができるだろう。もっとも、その道程というのは上述のように相当に行き当たりばったりなものであって、物語のエンディングにもデウス・エクス・マキナ的な強引さがある。
だから、本作の魅力はそういった、「ピノッキオの成長」というビルドゥングスロマン的な展開というよりは、「ピノッキオの成長しなさ」の方にあるようにおもえる。読者は、危機をようやく脱したピノッキオがすぐさまものすごい勢いで次の危機へと突っ込んでいくようすを見て、おいおいまたかよ、と突っ込みを入れたり呆れたりしつつも、でもそんな彼の姿――自らの欲望に正直過ぎ、意思が弱すぎ、あっという間に誘惑されてしまう――をなんだかかわいらしくおもえてきてしまうのだ。
訳者の大岡による「解説」曰く、賭博癖があったコッローディは、賭博の借金とフィレンツェ県庁を退職したことによる金銭的不自由を理由に、「まったく乗り気ではない状態」で本作を書き始めたらしい。彼には賭博癖の他にアルコール依存の気もあったらしいけれど、ともあれ、コッローディ自身の誘惑に対する弱さ、というのがピノッキオというキャラクターには存分に反映されており、だからこそピノッキオの弱さには妙にリアリティがあって魅力的に感じられる、というところはあるのだろう。
