作品概要・所感
乗代がデビュー前から15年以上にわたって書き継いできたブログ記事を改稿・整理したという一冊。前半の実験的な掌編群(「創作」)はちょっと乗りにくかったのだけれど、後半のエッセイ(「ワインディング・ノート」)と中編小説(「虫麻呂雑記」)はそれなりに楽しく読むことができた。作者の思考の軌跡をじっくり辿っていく感じの後半パートは、乗代の小説を読んだことがある人ならばきっと興味深く読み進められるだろう。
「全て」外から来たに決まっている
先日読んだ、菅付雅信『インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』には、アウトプットのためには大量のインプットがとにかく必須である、と書かれていたが、本作でもちょうどそんな話が扱われていた。
手塚治虫は、20世紀ドイツの作家、ベルンハルト・ケラーマンの『トンネル』に影響を受けて『地底国の怪人』を描き、かつ、『トンネル』から受けた影響についても包み隠さずに語っていたのだという。乗代は、この手塚の姿勢について、以下のように評価している。
だから、「好きだったな」ではなく詳細に語っているということは「証言」として非常に重要で貴重なわけです。 で、こんなことを言うと、世間には「いやわかってますよ。オレも、ぜんぶ自分で書いたなんて思ってないです。いろんなもの読んで、影響受けて、それでオレが考えて、書いて、この作品になったんです。オレの作品のほとんどは、外から来たようなもんです。手塚先生にも感謝してます。パクツイはカスのやることだ」などと言う輩が大勢いることでしょう。 でも、それがちがうんです。そんなものは「全て」外から来たに決まっているだろうがと僕は言いたいのです。精子だったり卵子だったりしたくせによく言うよ、と。 手塚治虫はシンプルにこう言います。「インプットがないのに、アウトプットは出来ません」全て外から来たのだと言い切れる者だけが、全世界を異郷として自覚するのであり、その「土壌」をぎんみするのであります。 (p.458-459)
表現者としての人間は、雑多な影響をわが身に合成されたキメラであることを避けられません。客観的に眺めてみると、それは引用の塊であるわけで、極論すれば、異常にグロテスクな姿です。
しかし、目をつぶれば、そこには統合された自分というものしかいなくなる。そうやって固定され、やっと信じられるものが「個性」の正体ではないでしょうか。 (p.491)
表現者の自己とは「全て」外部の影響を取り込んで合成したキメラであるが、それを自覚して(目をつぶって)アウトプットし続けていくことでしか「個性」はあり得ない、ということだ。引用部のように、乗代はかなり熱く語っているのだけれど、正直に言えば、この「オリジナリティとは何か」みたいな話は、まあよく聞く話かなという感じはする。古典的な問いだと言ってもいい。
たとえば、Austin Kleonが"Steal Like an Artist"で書いていたように、“Nothing is completely original”であるのだし、そもそも社会的な動物たる人間は、言語を他人から学習して用いるようになるのだから、「「全て」外から来たに決まっている」のだ。もっとも、乗代の文章は、その古典的な問いに対して、挑発的に、かつ、自身の創作経験に裏打ちされた「証言」として、その主張を打ち出しているところが魅力的だということはできるだろう。
自分だけのものなど、そもそもの始めからない。だからこそ、大量の、雑多な、異様にグロテスクな姿になるほどの、インプットが求められる。そしてそれは、インプットを消化する継続的なアウトプットと表裏一体のものでもあるだろう。本書のような、膨大な創作の蓄積を見ていると――本書は600ページ超の鈍器本であって、まさに長年にわたるインプットの影響とアウトプットの軌跡を隠さずに示した記録だと言える――そんなことを改めて考えさせられたりもしたのだった。
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