Show Your Hand!!

本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『0円で生きる 小さくても豊かな経済の作り方』/鶴見済

作品概要・所感

もともと人類は、お金に頼らず問題を解決するさまざまな手段を持っていた。しかし、資本主義が行くところまで行き着いた感のある現代では、お金を払うことで問題解決することが当たり前になっている。お金への依存度が極めて高い社会においては、労働と消費とをただただ繰り返すだけの毎日になりがちだし、お金をたくさん持っている人/お金をたくさん稼げる人が偉い、といった価値観が支配的になる。こうした状況にうんざりし、「お金への依存度」を下げていきたい、と考えるようになってきた人も多いだろう(もちろん、こんな本を読んでいる俺自身もその一人である)。

本書は、お金を使わず「0円」でできることってこんなことがあるよね、ということを改めて整理し直し、提示している一冊。鶴見の前作『脱資本主義宣言』の実践編、として位置づけられているとのことだ。

資本主義社会という、お金がすべての社会になったのは、ほんの数百年前のこと。それまでの人類史のほとんどの期間、人は必要なものを分け合ったり、あげたり、力を合わせたりしながら生きてきたのだ。はるか遠い昔のことではないのだから、取り戻せないはずがない。(p.3)

How To本でもあり、生き方に関する思想を語っている本でもある。というか、この両者は絡み合っているので、どちらかだけを抜き出して語ろうとすると片手落ち感が出てきてしまうものなのかもしれない。とはいえ、全体的にヘヴィなところはまったくなく、ごく軽いコラム、エッセイという感じで読めるようになっている。無料のやり取り、共有、拾う/貰う、助け合い、公共サービスの利用など、お金を使わないさまざまな手段が、鶴見の経験に即して語られていく。

この手の本は結構いろいろと読んできてしまっているので、個人的にはあまり新鮮味はなかったのだけれど、思想的には納得できる部分も多い一冊だった。あと、路上生活者がどこでどうやって廃棄食料をゲットしているか、についてのインタビューに基づいた詳細な記述があったりして、さすが鶴見…!とおもわされたりもした。

お金への依存度が高すぎる社会

もともとお金をつかわない社会では、お金を持っていないことは何の問題にもならない。例えば、伝統的な社会の人々がお金をあまり使わないことを、一概に貧しくてかわいそうと見なすことはできない。けれどもお金への依存度が高い社会になるほど、それを持っていないことは致命的になる。そして日本の社会は、この依存度が極めて高い社会だ。(p.6)

本当に、いまのこの世の中、大量生産・大量消費のグローバル資本主義社会というのは、うっかりしていると、使わなくていいお金までどんどん使ってしまう仕組みになっている。消費の欲望を駆り立てる広告は視界のあらゆるところに入ってくるし、必要ではないけれど便利になるものだとか、時短になるものだとか、射幸心や虚栄心を満たすものだとか、中毒性のあるものだとか、そういったお金を稼ぐことが目的のモノ――要するに、商品――で満ち満ちているのだ。

社会全体がお金をどんどん使うように仕向けてくるので、ぼうっと生きていると、せっかく労働で手に入れた資産をいとも簡単に消費によって失ってしまう。失ったら、またお金を稼ぐために労働しなくてはならなくなる。労働で稼いでは、消費で失う。この流れを繰り返し続けることで、多くの人の一生が終わっていくわけだ。

また、そんな風に大量に消費がなされている一方で、本当にモノが必要な人のところにはそれが届けられなかったりもする。本書にも、「現在世界で捨てている食べ物は、すべての食料生産の三分の一にものぼってしまう。先進国ではさらにその割合は高く、食料生産の半分を占めるとまで言われているのだから、にわかには信じがたい」(p.92)などと書かれているが、まったくうんざりする話だとしか言いようがない。

もっとも、本書の「あとがき」に、「お金を使うことは、人間関係の省略」と書いてあるとおり、人間関係が濃密になり過ぎることによる煩わしさやデメリットを解消するためにお金が役に立つ、という側面はやはりあるだろう。人間が社会的な動物で、社会の中で群れとして生きていく以上、そこにそれなりの問題が発生してくるのは自然なことであって、その緩和にお金が一役買う、というのは理解できる。まあこのあたりは、0か100かで考えるという話でもない、ということなのだろう。完全な「0円」を目指すのではなく、お金との間合いを測り、自分にとってちょうどよい「小さくても豊かな」経済の形を探し続けることが、この社会で現状可能な抵抗の形、ということであるのかもしれない。

www.hayamonogurai.net

『写真講義』/ルイジ・ギッリ

作品概要・所感

イタリアの写真家、ルイジ・ギッリが1989年から90年にかけて大学で行った講義をまとめた一冊。全13回の講義は、ポジとネガの違いといった写真技術のごく基本的なところから、写真とはそもそもいったい何で、現代人はイメージと、そして世界とどのように向き合っていくべきか、といった内容にまで広がっていく。最終章では、レコードジャケットと写真との関係についてもかなり詳しく論じられている。(ギッリは幅広いジャンルのレコードジャケットの撮影を手がけていたのだという。)

現実とイメージの均衡点を探る

ギッリの写真といえば、日常的で地味な被写体、パステルトーンの柔らかな色彩、整然としてミニマルな構図、ボケを廃した平面性、といったところが特徴だろうか。こうした構成の美しさから、彼の写真は「絵画的」と形容されることも多いけれど、だからといって、彼の写真が「カメラを使った絵画」だというわけではないだろう。

本書でギッリは、フレーミングという行為を通じて、現実に類似する別の空間、別のイメージを作り出すことについて語っている。それは、現実をありのままに写すというわけでもなければ、絵画的なイメージを恣意的に生み出すというわけでもない。そのどちらとも異なる、現実とイメージ、外界と内界とのあわいにある「均衡点」を探り出し、そこに光を当てることを、彼は重視しているのだという。

それは、世界と関わる一つの方法として、写真について考えるということです。そこには撮影者のしるし、つまりその人個人の物語やその人の存在物との関係が色濃く反映されます。しかし錬金術にも似た繊細な作業を通じて、私たちの内面ーー私の写真家・人間としての内面ーーと私たちの外で生き、私たちがいなくとも存在し、撮影した後も存在し続ける外的な存在物との均衡点を捜し当てる方向に向かわねばなりません。(p.18)
写真とはものごとを明らかにする、ものごとに光りを当てて見えるようにする表現だと私は確信しています。写真の本質は光で書くことですから、その基本は光とともに仕事をすること、光について繊細な感性を働かせることです。(p.182)
現実の中にどのように神秘の場所があるか、測り知れない場所があるかを見せる方が私はいいと思いますし、そうした場所は写真イメージの面白味も決定づけるのではないかと考えています。(p.185)

ギッリにとって写真とは、いわば光を通じて世界を問い直す行為だというわけだ。だから彼の作品には、メタ的な仕掛け(絵画やポスターなど、すでに作成されたイメージをさらにイメージとして撮ったもの)や、コラージュのように見えるもの(しかし実際にはコラージュではなく、現実の場所を撮影したもの)が多く含まれているのだろう。それらこそが、彼が言うところの、現実の中の「神秘の場所」、「計り知れない場所」なのだ。一見、人工的な構成に見えるそれらの写真が、実は現実そのものを撮影したものであるという事実が、見る者の認識にズレを生じさせ、新しい視点を与えることに繋がっている。

 *

ちなみに、俺がギッリの写真を初めて意識して見たのは、たぶん須賀敦子全集の表紙に使われた「モランディのアトリエ」の写真だったとおもう。独特な余韻を感じさせる静謐なムードが良いし、何より本の雰囲気とめちゃくちゃ合っているな、くらいのことはおもっていたのだけれど、その作品が生まれる背景にはこういった彼の写真観があったというわけだ。

『インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』菅付雅信

作品概要・所感

クリエイティブ系の自己啓発書。菅付の主張はシンプルで、「質の高いアウトプットを行うためには、質の高いインプットを大量に継続する(=ルーティン化する)必要がある」と言っているだけである。そして、その証拠として、「天才」の誰々は…と、有名なエピソードが列挙されていく形式になっている。

本、映画、音楽、アート、食、について取り上げられているのだが、どのジャンルについても清々しいくらいに新規性の感じられない内容しか書かれておらず、全体的に退屈だった。各ジャンルについて、おすすめコンテンツのリスト(ベスト100)が掲載されているものの、いずれもベタな古典ばかりというか、「どこかで見たようなリスト」としか言いようがなく、正直、こんなのをドヤ顔で出されてもな…とおもってしまった。著者なりの審美眼や独自性といったものがほとんど感じられなかったのだ。

でも、自分は習慣化できてんのか?って話

とはいえ、菅付の主張している内容――「大量・高精度・高負荷なインプットを行い続ける習慣こそが、アウトプットの土台になる」、「ザッピング的なインプットなどはまったくの無意味である」、「世の中にありふれた「いいもの」ではなく、「すごいもの」を見極めて、「すごいもの」をこそインプットせよ」、「アウトプットの質は、ネタのストック量とその掛け合わせの試行回数によって決まってくるのだから、ストック量がなければ話にならない」――それ自体には、いずれもまったく異存はなかったのだった。というか、菅付の言っていることはド正論だろう。

そういう意味では、本書は、ついついインプットをサボりがちな自分に活を入れてくれるような一冊でもあった、と言ってもいいのかもしれない。実際、彼が言うところの「ハードなインプット」など、まるでできていないのがいまの自分なのだ――まさにそれこそが本来やりたいことであるはずなのに。(だからこそ、本書のような内容の薄い本を読んでしまっている…!)

『39歳からのシン教養』/成毛眞

作品概要・所感

本書はいわゆる教養本の一種ということになるだろうが、池上彰や佐藤優や齋藤孝のそれと違うのは、本を読むよりむしろググれ!と語っているところだ。過去に散々読書術の本を出しまくっていた成毛も、最近ではこういう本を出しているのね…という感じである。

30代半ばを過ぎたら、いまさら真面目に教養を学ぼうと入門書を読んだりしていてももう遅い。そんな暇があったら、1日30分でいいから、とにかく気になるワードを検索しまくって効率的に情報収集するべき(そしてその情報を未来予測や投資等のビジネスに活かして稼げ)、というのが本書の主張だ。

古典を捨てて、Wikiを読め、とのことだが…

世に蔓延る教養本では、あれは必読だしこれも読んでおくべき、と読むべき本が無限に羅列してあるのが常だけれど、成毛に言わせれば、「入手可能な情報を全て利用することなど、時間的にも、また、コストの面からもムダでしかない」。苦心して古典を読むのではなく、むしろウィキペディアで気になるワードをどんどん別タブで開きながら読んでいけ、ということになるわけだ。これはまあ、多くの人がそれなりに納得できる内容だろう。教養本に羅列されたリスト――著者自身だってちゃんと読んでいるのか怪しまれるような長大なリスト――を網羅するように読めている人など、実際のところほとんどいないのだろうから。

自分が入手すべき情報を増やすとともに、不必要な情報はカットする。そのためには、これまでの知識のインプット法、勉強法を思い切って捨てるべきだ。情報の選別と学びのアップデートこそが、これからの時代に本物の教養を身につけるためには不可欠だ。

上記を主張した後、本書の残りページでは、「生命科学の勉強法」「地政学の勉強法」「数学の勉強法」…といった具合に、成毛が各分野で最近収集した情報とその勉強方法の例がいろいろと掲載されていく。が、これを教養と呼べるのかと考えてみると、正直微妙かなという印象だった。教養って別にたくさんの情報を扱えることとか、各分野について一丁噛みできることとは違くない?とか、成毛の集めている情報は教養というよりむしろ雑学なのでは?とか、そんなようなことをおもってしまったのだった。(まあだからこそ、本書のタイトルも「教養」ではなく、「シン教養」ということにしているのだろうけれど。)

www.hayamonogurai.net www.hayamonogurai.net

『読んでいない本について堂々と語る方法』/ピエール・バイヤール

作品概要・所感

挑発的なタイトルの一冊だが、「読書をサボるための言い訳マニュアル」というわけではない。バイヤールが本書で扱っているのは、本を「読む」こと「語る」こととは、そもそも本当はどういうことなのか?という問題である。

そもそも、「本を読んだ」とはどういう状態を指すのか。一度通読したら「読んだ」と言えるのか?では、流し読みした場合は?目次だけチェックした場合は?一度目を通したからといって本の内容がすべて頭に入ることなどないはずだが、いったいどの程度まで頭に入れば「読んだ」ことになるのか?人は読んだ内容を時間とともに忘れていくものだが、忘れてしまったならばそれは「読んでいない」状態に戻った、ということになるのか…?

バイヤールは、こうした問いを突き詰めていくことで、「読んだ/読んでいない」という二分法そのものに疑問を投げかける。本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である、と彼は言う。

どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、開きもしないということと同時的である。読む行為はつねに「読まない行為」を裏に隠しているのだ。「読まない行為」は意識されないが、われわれはそれをつうじて別の人生では読んだかもしれないすべての本から目を背けているのである。(p.27)

読書とは常に「読まない」という選択を孕んだ行為だというわけだ。

本書のタイトルには「読んでいない本について堂々と語る」とあるけれど、バイヤールは、「教養とは、書物を<共有図書館>のなかに位置づける能力である。(p.66)」と述べている。つまり、本の内容をすべて把握していなくても――というか、上述したように本の内容をすべて把握した状態になる、ということは実質的に不可能である――その本が他の本とどのように関係しているのか、を理解していれば、十分に「語る」ことはできるだろう、というわけだ。たとえば、バイヤールは『ユリシーズ』を読んでいないけれど、同作が「20世紀文学における特異点として語られる大作」であり、「モダニズムの極北」とされている、そういった位置づけについては知っているから、会話にも批評にも十分に参加できるのだ、と言う。

書物はあくまで通過点でなければならない

また、バイヤールはオスカー・ワイルドの言葉を引きながら、「批評の唯一にして真なる対象は、作品ではなく、自分自身なのである」(p.259)とも述べている。人は通常、「本について語る」ことを求められるものだが、真の批評とは、本そのものについて語ろうとすることではなく、むしろ、その本を通して「自分自身について語る」ことなのだ、というわけだ。(だからこそ、「読んでいない本について堂々と語る」ことすら可能だ、ということになる。)

というのも、作品はいずれにしても言説のなかで姿を消し、つかのま現われる幻覚の対象に場所を譲るのである。後者こそは、あらゆる投射を引き寄せ、さまざまな介入に応じて不断に変容してゆく幻影としての作品にほかならない。であってみれば、作品を自己についての探求のよすがと捉え、手にすることのできる数少ない要素から出発して、またそれらの要素がわれわれの親密でかけがえのない部分について教えてくれることに目を配りながら、自分の<内なる書物>の断章を書くよう試みるにしくはないのである。耳を傾けるべきは自分自身にたいしてであって、「現実の」書物にではない。(p.265)

どんなに客観的に語ろうとしたところで、人は結局のところ、自分のフィルタを通してしか本を把握し、理解し、説明することはできない。であれば、いたずらに本を読むことを神聖視するのではなく、むしろ積極的に本を活用して自分自身の思考を形作っていき、自分の<内なる書物>を生み出そうとしていく方が誠実なのではないか(というか、本当はそれしかできないはずだろう)、ということだ。

読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者は、書物の各々が自分自身の一部をかかえもっており、もし書物そのものに足を止めてしまわない賢明さをもち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるということを知っているのだ。(p.263-264)

そもそもなぜ人は本を読むのか、ということを考えてみれば、それは自分自身に何かしらの影響を与えるためだと言っていいだろう。そう考えてみると、本について「語る」ということにおいても、その本が自分に対してどのような影響をもたらしたのか、その本を通して自分がどんなことを理解したり考えたり感じたりしたのか、要は、自分がその本とどのような対話をしたのか、ということこそが本当に重要なことであるはずだ。

ちなみに、本書を俺がはじめて「読んだ」のは2016年のことだったのだけれど、今回読み直してみて、内容をほとんどまったく覚えていなかったことに気がついた。ひどい話だが、ただ「読んだ」だけで、自分の<内なる書物>について語らずにいると、10年も経たないうちにそうなってしまう、というわけだ。