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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『センチメンタル・バリュー』

作品概要・所感

ノルウェーはオスロ。ノーラは才能ある舞台俳優だが、どこか精神的に不安定な日々を送っている。妹のアグネスは家庭を築き、夫と幼い息子と健やかに暮らしているように見える。母の葬儀の日、彼女たちが子供の頃に家を出ていって以来すっかり音沙汰なしになっていた映画監督の父、グスタヴがやって来る。15年振りの新作の主演をノーラに依頼したい、というのだ。いまなお過去の傷を抱えたままのノーラは、父の提案をにべもなく拒絶し、彼が差し出す脚本を見ることもしない。やがて、グスタヴはアメリカの若手スター俳優、レイチェルを連れて、かつてノーラたち家族が暮らしていた実家を舞台に、映画撮影を始めるのだが…!

上記のあらすじだけを見ても、家族の人間関係における葛藤を描いた物語だということ以外は、いったいどんな映画なのか伝わりにくいかもしれないけれど、脚本、映像、演出、演技、音楽と全方位的にクオリティが高く、そして自分好みの映画だった。

北欧の澄んだ空気感とカラーグレーディングの雰囲気、会話や画で説明し過ぎず余白を多めに残した構成や、いたずらに観客の感情を揺さぶろうとしない物語の描き方、倦怠や人生に対するメランコリックな感覚など、いかにもヨーロッパらしい、大人な作品に仕上がっていると言っていいだろう。

対話のなかで、家族の「わからなさ」を受け入れる

本作が描くのは、年齢を重ねること、孤独を感じながら生きること、何かを共有すること、どうしても共有不可能なこと、過ちを認めること、認められたいという想いとの折り合いの付け方…といった、複数の主題が重層的に絡み合った物語である。しかし、それらを貫く一本の軸になっているのは、やはりグスタヴとノーラというある意味似たもの同士の父娘の葛藤であるだろう。ふたりとも、映画や舞台といった物語を通してしか、自己をうまく表現することができない。そのようにしか生きられない、不器用さを抱えた人間なのだ。グスタヴが家族を捨てて家を出たのも、ノーラが舞台を恐怖して逃げ出したくなるのも、その根本にあるのは、似たような、自己を他者に曝け出すことから逃避したい、という衝動であるようにおもえる。

家族の葛藤を描いた映画であるからして、やはりエンディングではその葛藤について一定の解消や解決が見込まれるわけだけれど、本作の着地点はそう単純なものではない。「父が脚本に込めた想いを娘が感じ取り、父を赦すに至る」あるいは、「父の作った映画によって、家族を演じることしかできない娘が救われる」といった、物語や映画の力を安易に賛美するような結末にはなっていないのだ。そこが良かった。ふたりは全面的な理解や和解に至るわけではない。ラストシーンはひとまずの落としどころ、といったところだろう。だからこそ彼らは、まあこんなものだろうか?という具合に、おずおずと視線を交わし合うばかりなのだ。それでも、それまでの物語を辿ってきた観客としては、さしあたってはそれで十分ではないか、と感じられるようになっている。

彼らがそのような地点に至ることができるのは、自分自身では開示できないものを対話によって引き出してくれる人物の存在によるところが大きいだろう。レイチェルが自身の役と真剣に向き合っていくことで、グスタヴは図らずも自らを省みるようになっていく。アグネスはノーラの聴き手となって、ノーラ自身も十分に把握できていない感情を少しずつ引き出していく。映画全体を通して、そういった対話の連なりが繊細に描かれているのだ。

人はそれぞれ自身の主観でしか語ることができず、だからこそ他者との断絶というのはつねにある。しかし、対話のなかで主観と主観とをぶつけ合うことで、他者の異質さ、他者性というものをより深く認識していくことはできるだろう。本作の物語が誠実なものに感じられる理由のひとつは、登場人物の各々に、それぞれの立場、視点、価値観、感情があるのだということ、つまり他者の他者性を、「わからなさ」を、しっかりと描き出しているからではないかとおもう。家族だからといって簡単にわかり合えるものではないし、そのわからなさ、自分との違いを認めることこそが、他者の主体性を歓迎することではないか、というような、ポリフォニー的な感覚が作品全体に通底しているのだ。