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『ためらい』/ジャン=フィリップ・トゥーサン

作品概要・所感

ある島の海辺の村へ、友人の家を訪れるために、ベビーカーに息子を乗せて主人公の「ぼく」がやって来る。だが、「ぼく」は「何やら謎めいた不安」に引き止められ、友人に会いに行くのをためらってばかりいる。行くべきか、行かざるべきか、と逡巡するうち、あの車に彼が乗っていたのではないか、あの窓から彼はこちらを見ていたのではないか、この痕跡は彼の残したものに決まっている、このカメラで彼はぼくの写真を撮っていたのに違いない、などと妄想が広がっていくのだが…!

「ぼく」は周囲の世界のありとあらゆる事象からできごとや意味、暗号や予兆を見出そうとするが、それはあくまでも彼の妄想でしかなく、世界の側が彼に応えることはない。何かが起こりそうな気配、不穏な雰囲気が横溢しているのにも関わらず、その何かは最後まで何も起こらない。また、全編が一人称で書かれていて、~のようだ、~と考えた、といった主人公の内面を直接的に表す文章は十分にあるのだけれど、彼がそう感じたり考えたりするところの理由については、まったく触れられることがない。

止まらない妄想と「ためらい」の連鎖

たとえば「ぼく」はビアッジ家を訪問するために村にやって来たはずなのだが、一向にビアッジに会いに行こうとしないし、どうやら会いに行くこと自体が彼にとってはなかなかに難しいことであるらしい(詳細についてはいっさいわからない)。それでいて、彼はビアッジ家の郵便ポストを勝手に開いては、そこにあった4通の手紙を持ち帰ってしまったりもする。とにかく行動の動機なるものについては――そんなものがあるとすれば、だが――明らかにされないのだ。

だから読者は、彼の振る舞いを、無軌道な行き当たりばったりと受け取ることもできれば、逆にそこに何らかの切実な思惑や隠された論理を読み込もうとすることもできてしまう。その判断を宙吊りにされたまま、読者は「ぼく」の奇妙な歩みに付き合わされることになるわけだ。

~かも知れず、~であるならば、~に違いない、と語り手の妄想だけでどんどん文章が書かれていってしまう――どう考えてもただのおもいつきなのに、なぜか「ぼく」はそれに瞬時に飛びつき、そうに決まってる、と確信してしまうのだ――ところは、どこかカフカ的にも感じられる。つまり、こちらからは知り得ないようなルールというか決まり、定めのようなものがあって、主人公の周囲の世界はそれに従って動いているのではないか、というような。

また、何でそんなことするの?と読者におもわせてくる感じ、ミニマルで無表情な感じは、アキ・カウリスマキの映画のようでもある。「ぼく」は、ビアッジに会うという本来の目的とは裏腹に、自分の妄想が勝手に見出した予兆や不安を裏付けるために、ちぐはぐな補完作業としての行動を積み重ねていく。そんな加速し続ける思考の飛躍そのものが、本作を牽引する実質的なエンジンになっているのだ。

ホテルに戻り、道に面したガレージの、金網張りの小さな門を乗り越えて、音を立てずにテラスに滑り下りた。出てくるときに、食堂のガラス戸を少し開けたままにしておいたのだが、さて入ろうとして、外に出ているあいだにガラス戸が誰かの手で閉められてしまっているのに気がついた。外側からガラスに手を当てて何とか開けようとするのだが、どうしても戸は動かず、ぼくは突然恐怖に襲われ、ぼくが外に出ていることを知らない人物が、ガラス戸を閉めてしまったのではないかという考えが一瞬頭に浮かんだが、しかしまた、ホテル外の誰かが、ぼくを入れなくしようとしてわざと閉めたのかもしれず、つまりその人物は村のどこかにいて、ぼくが港にいるあいだ、こっそり見張っていたのであり、今だってどこかからぼくの様子を窺っているのかもしれず、おそらくは夜ごと外出するのがその人物の習慣で、たまたまここいく晩かのあいだに、まさに丁度、今夜照っているのと同じ月光の下、今夜と変わらぬ黒雲が空を滑っていく中、突堤を歩いているぼくの姿を目に留めていて、今晩はぼくが外に出るのを見定めたうえで、ガラス戸を閉めに来て入れないようにしてしまい、それどころかまさにこの瞬間も、闇の中、テラスの木陰の、ぼくから数メートルのところにじっとたたずんでいるのだと思われた。ビアッジだ、その人物とは、ビアッジに違いない。(p.55-56)

妄想が飛躍しまくっていき、最終的に無根拠な断定に至るこの部分なんて、「ビアッジだ、その人物とは、ビアッジに違いない。」という決め台詞に向かって駆け上がっていく、謎の高揚感のようなものすら感じられる。「ぼく」はひとりで盛り上がりまくってしまっているのだ。

ビアッジ家の人たちはきっともう家に戻っているはずだが、時間がたつにつれて、そしてこうして部屋の窓際でじっとしたまま彼らに会いに行くのを先延ばしにしているうちに少しずつわかってきたのは、村に来ているということを知らせに行くという、いとも簡単としか思えない決心をするのに、今晩も相変わらずこれほどの困難を感じているのは、何と言っても最初の日に彼らに会いに行こうとして感じた、いちばん初めのためらいのせいに違いなく、そのためらいをぼくはいまだに打ち破ることができずにいて、しかもためらいは時とともに和らぐどころか、実際には日増しに強まっていき、ぼくが彼らの郵便箱から勝手に手紙を抜き取ったあの日を境として、完全に凝固してしまっているのであって、ぼくが彼らに会いに行くことは今やこれまでよりもはるかに困難になっているのだ。(p.123-124)

この部分も、ためらいの理由について詳細に語りすぎていて、何回読んでも可笑しい。何を言ってるんだ「ぼく」は、って感じである。

そういうわけで、本作は、いわゆる小説的な決まりごと、紋切り型、筋があり展開があり、登場する人物や物事にはそれぞれに相応の役割があり…といったものをことごとく無視した作品になっている。ミステリ的、サスペンス的な雰囲気だけは醸し出しつつも、その実何でもない、何も起こらない、という小説になっているのだ。デビュー作の『浴室』と比べても、何も起こらないっぷりはさらにグレードアップしている。

そういった決まりごとを無視しているにも関わらず、たしかに小説として成立しているのは、本作が情景やら思考やらを執拗なまでに細かく描写し続けることによって構成されているからだろう。何もないところにできごとや意味を無理矢理見出してしまう「ぼく」の滑稽さを描くことで、トゥーサンは小説というフィクションの形式そのものを笑っているようでもある。

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