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『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸(その2)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

第2部 イエス・キリストとは何か

第2部で取り上げられるのは、イエス・キリストにまつわるさまざまな疑問だ。イエス・キリストとはいったい何か?どのようにかんがえられ、どのように扱われてきたのか?預言者ではない、とされているが、じゃあいったい何者なのか?人間なのか神なのか?…といった素朴な疑問が扱われる。

  • なぜ、福音書は複数あるのか?
  • 福音書とは、「イエス・キリストについて証言する書物」であって、預言書――預言者の預言を記録した書物。『イザヤ書』などがこれにあたる――とは異なるものである。新約聖書の中心となる部分、すなわちキリスト教の教理となる部分については、パウロの書簡によってカバーされており、福音書はイエスについての目撃体験や伝聞のまとめという役割を果たしている。複数の福音書を比べてみたとき、証言者によって内容に微妙に差異があったりもするが、イエス・キリストが伝道して、十字架上で死に、復活したという一連のできごと自体が真理である、ということを大前提としているというところでは変わりがないとも言える。

  • イエス・キリストとは何なのか?
  • イエスは預言者ではない。「あるとき、神の言葉が聞こえてきた」タイプではなく、はじめから、神の計画によって生み出された特別な存在である。その役目は、人々に神の言葉をじかに伝えること。預言者は、「聞いたこと」を述べるが、イエスはそうではなく、自分の頭にあることを自然に話している。だから、たとえそのふるまいが預言者的であったとしても、預言者とは異なる、神の子である、というわけだ。

    イエスはイエスで独立した存在であるけれど、しかし、その意志は神の意志とまったく100%合致している。イエス・キリストは「完全な人間であって、しかも、完全な神の子である」。橋爪はこんな風に説明している。

    こうなるには、深い必然があったと思う。 まず、神の子でなければ福音にならないわけだから、神の子でないといけない。でもイエスは、人間に生まれなければならなかった。バーチャルな存在では人を救う力がないんです。実際に人間として処罰され、殺害されないと。 その両方を信じたので、イエス・キリストは、イロジカルな存在になった。神の子で、人間でもある存在が、神の主導でこの世に現れた。そう考えると、どうしても、そういうイロジカルな存在が出来上がるんです。こういう理由で、キリスト教の教理は、落ち着くところに落ち着いたと思います。(p.209)

    イエスは、神の子であり、神の子である自覚を持ちながらも、十字架上ではまさに人間としての苦しみを受けた、ということだ。

  • なんで神は全員を救わないのか?その基準もはっきりと示さないのか?
  • そういうことを求めると、一神教にならなくなってしまう。あくまでも、救うのは神、救われるのが人間、という図式が一神教の大前提である。つまり、人間が自分の努力によって救われたりすることはない。人間の行為を「業」というが、救いというのは、業の問題ではなく、神の「恩恵」の問題である。神の恩恵に対して人間には発言権がない。神が誰を救うかということが、人間にいちいち説明されることはない。

    聖書には、カインとアベル、放浪息子、マリアとマルタの話など、人間にとっては不公正としか感じられないような神の裁きというものがあるが、それは端的に、「人間には神に愛される人とそうでない人がいる。それは受け入れなければいけない。」ということを示しているのである。橋爪はこう述べる。

    健康の人と病気の人とか、天才とそうじゃない人とか、人間はみんな違いがあるでしょ。このすべての違いを、神は、つくって、許可しているわけだから。そうすると、恵まれている人間とそうでない人間がいることになって、それは一神教では、神に愛されている人と愛されていない人というふうにしか解釈できないんです。 そして、人間は必ず、自分より愛されている人を誰か発見するし、自分より愛されていない人を誰か発見する。これをいちいち、嫉妬の感情とか、神に対する怒りとして表明していたら、一神教は成立しないんですよ。ですから、そのことは絶対に禁じ手にするというふうになっていて、それを最初に示しているのがカインとアベルですね。その前はアダムとイブしかいなくて、男女なのでそういう違いは目立たないが、カインとアベルは男のきょうだい同士ですから。(p.229)

  • 愛と律法の関係
  • イエスは、それまでの律法を廃止して、愛に置き換えた。愛こそが律法の成就である、ということになっている。旧約から新約への移行において、律法のゲームから愛のゲームへの転換が起こっている。その愛が「隣人愛」。

    隣人愛のいちばん大事な点は「裁くな」ということ。人が人を裁くな(裁くのは神だけ)。律法は人が人を裁くのに使われていた。なので、なくしましょう、というのがイエスの主張である。