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『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸(その1)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

非常にわかりやすくまとめられた一冊。大澤が「誰もがいちどは抱くような素朴な疑問」を発し、橋爪が「学問的に正当な立場から回答する」、という対談の形式をとっており、この役割分担がわかりやすさの秘訣だろう。往々にして、もっとも重要な問いというのはもっとも素朴な問いでもあるわけだけれど、そういったシンプルかつ重要な問題が数多く取り上げられているところがいい。

本書は3部構成になっている。第1部で扱われているテーマは、ユダヤ教/キリスト教の一神教としての特性について。第2部は、イエス・キリストという人物の特殊性について。第3部は、キリスト教が西洋文化に与え続けている影響について。各部のおもしろかった箇所について、かんたんにノートを取っておこうとおもう。

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第1部 一神教を理解する――起源としてのユダヤ教

  • 神は完全なのに、なぜ世界は不完全なのか?
  • ユダヤ・キリスト教における神(God)というのは、どこまでも絶対的、超越的な存在である。だから、われわれには、神の意図や意志を完全に知ることはできない。…となると、ではなぜ、そういった絶対/全能であるはずの神が創造したこの世界は、これほどまでに不完全なのか?なぜこの世界のなかには悪があるのか?なぜ我々はこれほどまでに間違いを犯すのか?といった疑問が湧いてくるだろう。こういった疑問は、信仰にどのように影響するのだろうか??このような大澤の疑問に対し、橋爪は以下のように回答する。

    試練とは、現在を、将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きるということなんです。信仰は、そういう態度を意味する。 信仰は、不合理なことを、あくまで合理的に、つまりGodとの関係によって、解釈していくという決意です。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事もいろいろ起こるけれども、それを合理的に解釈していくと決意する。こういうものなんですね。いわゆる「ご利益」では全然ない。(p.79)

    まさにそういった疑問を神へと語りかけ、コミュニケーションを取ろうとすることこそが、「祈り」であり、なぜ、なぜ?とかんがえ、神と対話していこうと試みることこそが、信仰というものの本質である、ということだ。『ヨブ記』に描かれているように、なぜ?と神に問いたくなるような出来事が我々に振りかかるのは、神が与えたもうた試練である。神とのコミュニケーションは端的に不可能ではあるけれど、しかしその不可能性をそのまま受け入れること、神の「わからなさ」についてかんがえ、それをなんとか人間の側で合理的に解釈していこうとすること、それこそがすなわち信仰である、というわけだ。

  • 合理主義はユダヤ・キリスト教的な世界観から発展した
  • 西洋の科学はユダヤ・キリスト教的な世界観から出発し、それを基盤として発展していったものだ。だから、科学の進歩によって自然が解明され、聖書に書いてある内容と異なる結論が出てきたりしても、その場合、多くの人々は「科学を尊重し、科学に矛盾しない限りで、聖書を正しいと考える」ことにした。地動説や進化論やビッグバンといったものは、そういった形でキリスト教文明の一部に組み込まれていったわけだ。

    そういうわけで、西洋文明の思考の奥底の部分には、神の計画を探求するために生み出されたユダヤ・キリスト教の合理主義というものが根を張っている。ユダヤ・キリスト教的な世界観のなかからこそ合理主義が発展していったわけで、だから、いわゆる「科学的」な世界観はユダヤ・キリスト教的な世界観を単純に否定したわけではなく、その世界観をより徹底し、止揚していったのだと理解する必要がある、と橋爪は述べている。

    現代を考えるうえで重要なのは、このような態度のレベルでの信仰だと思うのです。もうキリスト教なんて形骸化しているとか、もう信じている人はごく一部にすぎないとか、そういうふうに思う人もいるかもしれません。しかし、意識以前の態度の部分では、圧倒的に宗教的に規定されているということがあるのです。そうするともともとのユダヤ教、キリスト教、あるいはその他の宗教的伝統がどういう態度をつくったかということを知っておかないと、世俗化された現代社会に関してさえも、いろんな社会現象や文化について全然理解できないことになるんですね。(p.127)

    こういった、ユダヤ・キリスト教の宗教的伝統によって作り出された態度が科学的思考に対して顕著に影響を示している例も、いくつか挙げられている。たとえば、マルクス主義の物神崇拝批判は、「一神教における偶像崇拝批判と同様の論理構造を持ったもの」である。あるいは、ドーキンスは自らを無神論者だと主張しているけれど、「創造説を何としても批判しなくてはならないというあの強烈な使命感、そして創造説か進化論かということに関連した、一貫性への非常な愛着」というのは、まさに宗教的な合理性追求の欲求の表出であると言える…など。