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「袈裟と盛遠」芥川龍之介

作品概要・所感

月の出を待つ男(盛遠)は、関係を持った女(袈裟)の夫をこれから殺しに行こうとしている。その一方、女は、月が傾いても姿を現さない男をじりじりしながら待っている。

男と女のそれぞれが、相手に対して抱いている自身の感情を、執拗なまでに掘り下げて、どこまでも内省し続ける。ふたりのどちらもが、自分は相手をたしかに憎んでいるが、それと同時にやはり愛してもいるのだ、と考える…!

蔑み、恐れ、憎み、愛する

空虚を埋めるために愛しているふりをし、嫉妬心から愛していないふりをする。行き場をなくした愛情を憎悪へと変異させ、復讐心に燃えながら贖罪の行為を行う。まさにアンビバレントの塊と言っていい彼らふたりは、どちらも我欲にまみれまくっているのだが、愛というものがエゴイズムの極北であるという意味においては、彼らはやはり正しく愛し合っていたのではないか、とおもわされる。

この己を、この臆病な己を追いやって罪もない男を殺させる、その大きな力は何だ?己にはわからない。わからないが、事によると――いやそんな事はない。己はあの女を蔑んでいる。恐れている。憎んでいる。しかしそれでも猶、それでも猶、己はあの女を愛しているせいかもしれない」(p.78)
昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。そうしてその一人の男が、今夜私を殺しに来るのだ。この燈台の光でさえ、そう云う私には晴れがましい。しかもその恋人に、虐まれ果てている私には」(p.83)
しかし私自身を頼みにする事の出来なくなった私は、何と云うみじめな人間だろう。三年前の私は、この私の美しさを、何よりもまた頼みにしていた。三年前と云うよりも、或はあの日までと云った方が、もっとほんとうに近いかも知れない。あの日、伯母様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、あの人の心に映っている私の醜さを知ってしまった。(p.80)

男が「罪もない男を殺させる、その大きな力」に駆り立てられるのも、女が「私自身を頼みにする事の出来なくなった」のも、愛ゆえである。不意に他人を愛してしまったがゆえに、その相手にとって自分がどのような存在であるか、ということが重大事になり過ぎてしまっているのだ。彼らは、愛ゆえに主体性を失い、他者に左右されずに生きることができなくなってしまっている。気づかぬうちに自身の存在意義を他者に委ねてしまった彼らは、「臆病な己」、「みじめな人間」と自己否定的になる他ない。

この自己否定こそが、彼らの結論、すなわち主体性の完全な放棄を導き出すことになる。男は愛を証明するために殺人を犯し、女は愛を確認するために自身を差し出す。この倫理も理性も何もない、一見してやぶれかぶれのむちゃくちゃでしかない行為は、しかし彼らのなかではこの道しかない、という必然なのである。ふたりはそれぞれに、抗いがたい感情に自身のすべてを委ねること、そこにこそ愛がある、と直感しているのだ。

「袈裟と盛遠」が描くのは、愛という名のエゴイズム、あるいはエゴイズムという名の愛の持つ、恐るべき引力である。それに捕らわれたものは、何をも顧みず、すべてを呑み込んでどこまでも突き進んでいってしまうのだ。が、それは同時に、もっとも純粋な魂の震え、葛藤の源でもある。であるからこそ、このシンプルなふたりの男女の物語は、グロテスクで不気味でありながらも、ほとんど神話的な美しさをたたえているようにも見えるのだ。