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『ふしぎなキリスト教』/橋爪大三郎、大澤真幸(その3)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

第3部 いかに「西洋」をつくったか

第3部で扱われるのは、キリスト教が、いわゆる「西洋」の社会にどのような形で浸透し、影響を与えてきたか、そしてどのような世界を作り上げていったか、ということだ。

ここでとくにおもしろいのは、第1部でも少し触れられていた、世俗的な文化や社会構造のなかにキリスト教的なるものが入り込んできている(というか、まさにその下地となっている)その様態についての話だ。たとえば、科学革命の時期は宗教改革の時期とだいたい重なっており、また、その科学革命の担い手の多くは熱心なプロテスタントであったわけだけれど、こういった自然科学の発展というのは、「人間の理性に対する信頼」と「世界を神が想像したと固く信じた」ことに基づくものだという。神と個人とのあいだには聖書があるだけ、というプロテスタントの教義(カトリックのように、教会に強大な権威が与えられていない)こそが、こうした発展を支えたのだろう――「神を絶対化すれば、物質世界を前にしたとき、理性をそなえた自分を絶対化できる」――と橋爪は述べている。

世界は神がつくったのだけれども、そのあとは、ただのモノです。ただのモノである世界の中心で、人間が理性をもっている。この認識から自然科学が始まる。こんな認識が成立するのは、めったにないことなんです。だから、キリスト教徒、それも特に敬虔なキリスト教徒が、優秀な自然科学者になる。優秀な仏教徒や、優秀な儒教の官僚などは、自然科学者になりませんね、自然に興味を持ったとしても。(p.312,313)

他にも、ヴェーバーの『プロ倫』に記されているように、プロテスタントの生活態度が意図せざる形で資本主義の発展の呼び水になっていたという話だとか、マルクス主義は無神論だと主張しているけれど、その世界観はまさにキリスト教的終末観を下敷きにしたものであるだとか、カントは厳格なプロテスタントだったけれど、その認識論や道徳論は神の存在を完全にカッコに入れた状態で形作られたものであるということだとか、さまざまな例を挙げながら、キリスト教的な発想、キリスト教をベースにした思考というものが、どのような形で「西洋」の社会の土台の部分、しかも世俗的な部分に浸透しているか、ということが語られていく。

まさに、キリスト教から脱したように見える部分で、実は、最も強い影響が現れているという逆説です。 ふつう世俗化というと、宗教の影響を脱することを言うわけです。しかし、キリスト教は、世俗化において一番影響を発揮するという構造になっている。(p.326)

グローバリゼーションの進行のなかでは、いままで以上に、こうしたキリスト教文明と他文明との交流/衝突の機会というのは増えていくだろう、その際には、キリスト教文明の基盤となっている思考様式について知っておく必要があるよね、というのが橋爪/大澤の主張というわけだ。