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『贖罪』/イアン・マキューアン

贖罪

贖罪

クラシカルな文芸大作の体裁をとった、マキューアン流のラブストーリー。とはいっても、もちろんそこはマキューアン、メタフィクショナルな視点や登場人物たちを突き放すような冷徹な態度が作品の背後には常にあるし、どこまでも考え抜かれた構成と的確過ぎる描写はとにかく上質としか言いようのないもので、小説を読むよろこびをじゅうぶんに味わせてくれた。

本作で扱われるテーマは、タイトルの通り「贖罪」――取り返しのつかない罪を犯してしまったとき、人はそれをどのようにつぐなうことができるのか――である。取り返しがつかないがゆえに、人は贖罪を希求しないではいられないし、しかし、いくら求めてみたところでそれが叶うことは決してあり得ない…そういった、贖罪の不可能性にまつわるドラマが400ページにわたって描かれていく。

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作品は三部構成になっている。まず、第一部では、主人公のブライオニーが少女の頃、いかにして「罪」を犯すに至ったのかについてのエピソードが、マキューアンならではの超精密な文章で描かれていく。ブライオニーは、虚偽の証言によって、姉セシーリアの恋人、ロビーを犯罪者に仕立て上げてしまうのだが、このあたり、19世紀小説的なねちねちした心理描写によって少しずつドラマが盛り上げられていくのがたのしいし、13歳の文学好き少女、ブライオニーのキャラクターというのがじつに緻密に――ちょっといじわる過ぎるんじゃないかってくらいに緻密に――描き出されているのも素晴らしい。

第二部は、第一部の5年後が舞台となり、ブライオニーによって無実の罪を被せられた男、ロビーの視点で第二次大戦中の退却戦の模様が描かれていく。喉の渇きや傷の痛み、爆撃に怯え常に空の気配を伺わずにはいられないという感覚、引き裂かれた恋人の記憶を繰り返し思い起こす様子など、映像喚起力が強く、リアリティに富んでおり、これはこれでひとつの中編小説として成立していると言ってもいいかもしれない。

第三部では、志願看護婦となったブライオニーの戦時中のエピソードと、彼女が自分の「罪」をはじめてつぐなおうとする試みの顛末が描かれる。彼女は、セシーリアとロビーのもとに直接赴き、とにもかくにも謝罪しようとするわけだ。このシークエンスにおける、居心地の悪さや背中にいやな汗をかく感じの生々しさというのはまさにマキューアンの真骨頂で、惚れ惚れしてしまう。

そして最後に、第三部から数十年が経過し、老年に至ったブライオニーの視点から、エピローグがつけ加えられる。このごく短いエピローグによって物語のエモーションが一息に引き出されるような構造になっており(『初夜』で用いられているテクニックと少し似ている)、淡々とした文章を読んでいくなかで、読者はひどく動揺させられることになる。第三部の後半部分――引き裂かれた恋人たちは戦火を越えて再会し、ブライオニーはつぐないのために彼らのもとへと向かう、というエピソード――はじつはブライオニーの生み出した虚構であって、実際のところは、セシーリアとロビーは二度と会うことのないまま、戦争のなかで命を落としていた…ということが明らかになるのである。第一部から第三部というのは、ブライオニーの書いた小説だったのだ。彼女は、こんな風に述べる。

ふたりが二度と会わなかったこと、愛が成就しなかったことを信じたい人間などいるだろうか?陰鬱きわまるリアリズムの信奉者でもないかぎり、誰がそんなことを信じたいだろうか?わたしはふたりにそんな仕打ちはできなかった。わたしはあまりに年老い、あまりにおびえ、自分に残されたわずかな生があまりにいとおしい。わたしは物忘れの洪水に、ひいては完全な忘却に直面している。ペシミズムを維持するだけの勇気がもはやないのだ。(p.437,438)

まあ、要は、ブライオニーは「贖罪」のために彼女の「罪」と恋人たちのエピソードを物語化していたというわけだ。己の罪の重さが耐え難いがゆえに、事実を歪めてハッピーエンドを形作ろうと、小説の推敲をブライオニーは繰り返していくが、そこで明らかになっていくのは、贖罪の不可能性ばかりであった…というわけだ。

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物語化によって「贖罪」を行おうという彼女の試みは惨めに失敗し続けるわけだけれど、まさにその試みの最中にしか、ブライオニーの安らぎというものは存在しない。彼女が小説を書き続けることは、自らの「贖罪」の可能性に手を伸ばし続けることであり、それが決して叶わないことだろうとわかってはいても、それでもなお手を伸ばさないではいられないのだ。

この五十九年間の問題は次の一点だった――物事の結果すべてを決める絶対的権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか?小説家が訴えかけ、あるいは和解し、あるいは許してもらうことのできるような、より高き人間、より高き存在はない。小説家にとって、自己の外部には何もないのである。なぜなら、小説家とは、創造力のなかでみずからの限界と条件とを設定した人間なのだから。神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない――たとえ無神論者の小説家であっても。それは常に不可能な仕事だが、そのことが要でもあるのだ。試みることがすべてなのだ。(p.438)

私たちは、こんなブライオニーの姿をあざ笑ったり、断罪したりすることができるだろうか?あなたがやっていることは、まったく贖罪になどなっていない、あなたのかんがえなどまったくのおもい上がりだ、などと言うことができるだろうか?そんなことは本人がいちばん身に沁みてわかっていることだというのに??

この世界には、決してつぐなうことの叶わない罪というものがある。「小説家にとって、自己の外部には何もない」のと同様に、この世界にも外部などというものは存在しない。マキューアンは、そんな世界に生きる人間というものの欠点――愚かしさやみっともなさ、恥ずかしさ――をまっすぐに見つめながら、それらを冷静かつ精密に、そして執拗に、そのくせなんとも上品に、描き出してみせている。