で、そのアンディなのだけど、はっきり言って、彼はかなり独特なアイロニーの持ち主である。まるまる一晩かけて『グレート・ギャツビー』を全編朗読するだけのネタとか、あらかじめ観客のなかに仕込んでおいたさくらに自分の芸へのブーイングをおもいっきりかまさせたりだとか、テレビのトークショーで台本にない乱闘騒ぎを起こしたりだとかって、なかなか強烈な芸風のキャラなのだ。いや、それだけならまだしも、本当に問題なのは、「アンディのふるまいのどこまでが本気でどこまでが演出(ネタ)なのか、誰にもはっきりとはわからない」という点だろう。
アンディの本心は、観客にはもちろん、共演者やプロモーターにすらはっきりと知らされることはない。まったく客に媚びることはない、ってどころか、客の求めるものを提供しようという気持ち自体がないみたいで、あいつはいったい何をかんがえてるんだ!?って、周囲の人間は困惑し、不安な気持ちにさせられることになる。アンディのような存在は、いったいどれだけの人に受け入れられるのか?いや、そもそも彼は、受け入れて欲しいなどとおもっているのだろうか??
ほとんど誰にも理解されないようなきわきわの笑いだけを追求する、アンディの姿は滑稽で痛々しいのだけれど、どこか清々しくもある。それは、どこまでも空虚で無意味なものに拘泥しているように見える彼が、やはりそこでたしかな輝きを放っているからなのだろう。その輝きは、周囲を顧みず何かを一途に追い求める者だけが放つことのできる輝き、たとえば『レスラー』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、『イントゥ・ザ・ワイルド』なんて映画の主人公たちの放っているそれと同質のものであるようにもおもえる。
この映画で描かれるアンディの姿を通して、観客は人間というものの空虚さを改めておもい知らされるような気分になる。だが、それは同時に、そんな空虚さの内からときおり生まれ出る、ほんの一瞬だけ辺りを照らし出す火花のような輝きを知ることでもある。"本当の自分"なんてものはどこにもないし、生きることはひたすらに無意味で、どこか空しい。でも、それはそれでいいのではないか?空虚や無意味さのなかにも高揚があり、美しさがある。意味や解釈のその先にある、言葉にならない豊潤さみたいなものを、アンディは目指していたのかもしれない、そんな風にもおもう。