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『ザ・マスター』

日比谷TOHOシネマズシャンテにて。ものすごくたのしみにしていたポール・トーマス・アンダーソン監督の新作だけど、いやー、これは期待していた以上に濃密でずっしりとした作品だった。

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舞台は1950年台のアメリカ。退役軍人のフレディ・クェル(ホアキン・フェニックス)は戦争の後遺症からアルコールに依存し、荒んだ生活を送っている。ポートレート写真の撮影技師をやってみたり、カリフォルニアの農場で働いてみたりもするのだが、少しでも気に喰わないことがあると自分を抑えられなくなる衝動的な性格が災いして、どんな仕事も長続きしないのだ。そんなある夜、フレディはパーティのにぎやかさにつられて忍び込んだ船のなかで、「ザ・コーズ」なるカルト宗教の主催者、ランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)と出会う。いつでも不機嫌で粗暴で、不健康に痩せた野良犬みたいなフレディと、常に大勢の賛同者に囲まれ、余裕たっぷりでいかにも成功者然とした恰幅のランカスター。まったく似ても似つかないふたりだけれど、ランカスターはどういうわけかフレディのことが気に入ったらしく、やがて彼を側に置くようになる。また、フレディの方も、「ザ・マスター」たるランカスターによる「プロセシング」と名づけられたカウンセリング療法を受け続けるうちに、彼のことを熱烈に信奉するようになっていく。とはいえ、持ち前の短気さは相変わらずで、「ザ・コーズ」の思想ややり口にりケチをつける輩を見つけると、後先かんがえずぼこぼこにしたりしてしまう。そんな野性味溢れすぎなフレディのふるまいに危険を感じる「ザ・コーズ」の幹部たちは、ランカスターにフレディとの関係を断ち切るよう進言するのだが…!

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ランカスターの主催するカルト集団、「ザ・コーズ」は、実在の米宗教団体、サイエントロジーをモデルとしているとのことだけれど、本作はとくにサイエントロジーについて描いた作品というわけではない。全編にわたってスポットが当てられているのは、フレディとランカスター、このふたりの男たちの関係性である。ただ、これがまあ何というか、なかなか微妙な関係であって、その様態をひとことで言い表すのは難しい。彼らふたりは、戦争のトラウマに悩む子羊と彼を受入れる教父であり、また、洗脳を試みる宗教家とそれを跳ね除けるほど荒々しい狂気を内に秘めた男でもある。そして同時に、外部からは計り知れない因果によって強固に結びついた友人同士でもある。

フレディはランカスターや「ザ・コーズ」が批判されることを我慢できないが、それは単純に彼がランカスターのことを信頼しているから、愛しているから、ということではないように見える。フレディはランカスターの提示する何らかの理想や幸福のイメージのようなものに幻惑されており――それは、ランカスターの「プロセシング」によってフレディの過去の甘い思い出がくっきりと想起させられたことと無関係ではないだろう――ランカスターへの批判を、フレディ自身が抱く理想への反駁のように感じてしまうようなのだ。ただ、フレディの本心にまつわる情報は、観客にはっきりと提示されることはない。

また、ランカスターは詐欺師まがいの宗教家であり、きわめて功利主義的な人間であるように見えるのだが、ふつうにかんがえて到底自分たちの益になるとはおもえないフレディを側に置き続ける。彼はフレディに対して何らかのシンパシーのようなもの――おそらくは、(自身では発散させることのできない)野性/獣性といったものに何の躊躇もなく従うことのできる自由さや無頓着さといったものへの共感――を感じていたようなのだが、しかしそれが具体的にはどんなものであるのかについては、これもやはり、観客にまで知らされることはない。

このように、この物語においては、ふたりの主人公の抱える問題や、彼らがそれぞれ相手に抱いている感情やその理由といったものがはっきりと具体的に描かれるということがない。だから、観客がふたりに感情移入したり共感したりすることはほとんど不可能だと言うことができるだろう。観客は、彼らの心情に没入することを許されていない。彼らのふるまいを外側から見つめ、ことの顛末を見届ける役割を与えられているばかりなのだ。

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そういうわけで、本作の見所はやはりこのふたりの濃厚すぎる演技ということになるだろう。彼らふたりが揃っているシーンはいずれも画面に異様な強度が宿っており、"何か決定的なことがここで起こっている"という、目が離せなくなるような気分にさせられるのだ(とはいえ、"本当に何が起こっているのか"については、いまいちはっきりしないことが多い。とにかくこの映画、説明的な描写や台詞というやつがかなりおもいきって省略されているのだ)。過去に関する質問が矢継ぎ早に繰り出される「プロセシング」のシーン、ふたりが刑務所に入れられ隣同士の檻に並んで入るシーン、砂漠でバイクを駆け抜けるシーン、ランカスターがフレディに"中国行きのスロウ・ボート"を歌うシーン、どれもその"真意"を測ることはことは困難だが、忘れがたいほどに強烈な印象を残す。

物語の最後、ランカスターはフレディにこんな風に語る。「もし君が主に仕えることなしに生きていける方法を見つけたなら、それを我々に教えてくれないか?そんなことができるのは世界の歴史上、君がはじめてだろうから」…これはいったい、どういう意味なのだろう?ランカスターは、「ザ・マスター」に仕えることなしにフレディが生きている/生きることができる可能性がある、とかんがえていたということなのか?そして、もしそうだとすれば、そんなフレディの生き方は、彼にはどのように映っていたのか??

…それらの疑問について、作中で明確な答えが描かれているわけではない。解釈の多くの部分は、観客に委ねられている。しかし、少なくともそこには、同情や憐れみがあり、と同時に共感があり、憧れもあるように見える。前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』もそうだったけれど、ポール・トーマス・アンダーソンが描いてみせたのは、ふたりの男の奇妙な運命の絡まり合い、端からはまったく理解できないが、当人同士だけはごく自然に感知し合えてしまう、互いの内面の闇や欠落、欠陥といったものの孤独と美しさだったのではないか、そんな風に俺はおもったりした。

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