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『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』/渋谷望(その2)

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

2章から8章においては、新自由主義的な言説とそれがもたらす効果について、さまざまな側面から分析がなされていく。俺がとくにおもしろいとおもったのは、(主に3章で扱われている)「貧困の恐怖」がこの消費社会においてどのような効果を発揮しているのか、という話。

ネオリベラリズム的社会政策が創出しようとするのは、「ライフスタイル」の主体である。個人にその選択の権利を付与し、その責任を引き受けるよう要請する。そうした社会においては、産業構造の変化に適応するためのスキルを身につけようとしない者、「自律的」で「アクティヴ」な市民でない者は、単にリスク管理が不得手というだけではなく、「モラルを欠いた者」と見なされることになる。こうした傾向によって、失業という問題から、社会問題としての側面が剥ぎ取られ、個人の倫理の問題に還元されることになるのだ。(p.52)

以前にハーヴェイ『新自由主義』のノートにも書いたように、このような個人の選択の自由(とそれに伴う自己責任)を最大限に尊重すること、そして、それによって導かれたコミュニティによって統治を行うことというのは、新自由主義の推進者たちの巧妙な戦略である。こういった言説の内部において、個人は、「"自らを企業者化(エンタープライズ)しようとする"」個人、「なされた選択、なされるべき選択の結果としてそれを合理化できる限りにおいて、選択行為によって自らの生活の質を極大化し、自らの人生に意味と価値とを与えようとする活力ある」個人と見なされることになる。要は、「自己実現」の主体ということだ。

このような、「選択行為によって自らの生活の質を極大化し、自らの人生に意味と価値とを与えようとする」責任を果たさない、「モラルに欠けた」個人、消費社会の倫理に従おうとしない者は、社会における道徳的なコミュニティ――それは家族であったり、学校であったり、職場や地域社会であったりするだろう――から排除されることになる。

そんな新自由主義的な倫理感がマジョリティのものとなった消費社会において、貧困とはどういった意味を持つものか、渋谷はバウマンを引きながらこのように述べる。

消費社会における貧困の経験はたんなる生活水準の低下以上のものを意味する。貧困者の側からすればそれは心理的ダメージであり、プライドの破壊であり、恥辱(スティグマ)である。(p.88)

消費美学が支配的な社会では、貧困から脱出し、豊かな消費生活をじっさいに生きる以外に、貧困者は自己に対する「アブノーマル」という非難を払拭することができない。つまり消費社会においては貧困者は定義上、その存在が――行為がではなく――「欠陥」であり「罪悪」なのである。(p.89,90)

ポスト福祉社会、新自由主義的社会に不適合な市民、都合のよくない市民は、「自己実現」、「自己責任」のイデオロギーによって「アブノーマル」扱いされてしまう。そうして、「アブノーマル」であると見なされた貧困者、生活保護受給者、市場経済から足を踏み外した者は、その悲惨な状況を他の市民に「見せしめる」ことで、彼らを新自由主義社会のなかに踏み止まらせる役割を担うことになる。新自由主義的な倫理に適合した「自律的」で「アクティヴ」な市民が、「アブノーマル」な貧困者を非難し見下すことで、必死で「自己実現」しようと頑張っている自らの姿を肯定しようとする、そんな構造ができあがっているというわけだ。

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