資本に対する累進課税を実施するとしても、それは全世界的に行われなければならない。タックスヘイブンというやつがあるのだから、各国がばらばらに課税を行ったところで、資本は別の国に逃げていくだけだからだ。そしてもちろん、課税実施の際には、全世界に存在するあらゆる資産(金融資産と不動産)を一元的に把握し、管理する必要もある。だから、この政策の実施のためには、かなり強力な権力を持った、グローバルな政治機能が必要ということになる。また、ピケティは例として、「100万ユーロ以下の財産には0.1から5%…(p.602-603)」という数字を挙げているけれど、これは政治による私的所有の制限ということにもなるわけで、彼の提言はある種社会主義的な政策だということもできるだろう。(もっとも、いままでだって、資本主義は、そのシステムの綻びを度々社会主義的な政策を用いて修復してきている。リーマン・ショックの際にアメリカ政府が採った政策――公的資金の大規模投入――を思い出せばわかりやすいだろう。)
正しい解決策は資本に対する年次累進税だ。これにより、果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。たとえば、私は本書で100万ユーロ以下の財産には0.1か0.5パーセント、100-500万ユーロの財産には1パーセント、500-1000万ユーロに対しては2パーセント、数億や数十億ユーロの財産には5か10パーセントという資本税率表を支持した。これは世界的な富の格差の無制限な拡大を抑える。この格差増大は、いまや長期的には持続不可能な率で高まっているし、これは自律的な市場の最も熱狂的な支持者ですら懸念すべき水準だ。さらに歴史的な実例を見ると、こうしたすさまじい富の格差は、起業精神などとはほとんど関係ないし、成長促進にもまったく役に立たない。またそれは、本書の冒頭で引用した1789年フランス人権宣言にある「共同の利益」などいっさいもたらさない。 むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。これは、すでに社会的な同意への基盤が存在する国民国家を超えた問題だ。(p.602,603)
つまり、ピケティの言う全世界的な資本に対する累進課税を行うためには、巨大な政治組織と政治権力が必要になってくるわけだけれど、そのような組織や権力というやつは、必然的に不平等を、つまりは格差を生み出してしまうものだ。これは、いまや誰もが知っている社会主義の教訓でもある。だから、ピケティの政策を実施できるような民主的で平等な環境が整ったとすれば、それはもはや格差の問題が解消している状態だろう、ということになってしまう。(格差の問題が解消していなければ、民主的な世界政府は実現できないから、世界的な累進課税は不可能である。また、民主的な世界政府を作り出すためには、格差の問題を解消する必要がある。…という、卵が先か鶏が先か、みたいなことになってしまう。)
だいたい、いざ資産課税が強化されるとなれば、本当の超富裕層は政治力を含めたありとあらゆる手段を用いて資産を隠したり、自分たちに都合のいい解釈を普及させたりして課税の回避を試みるだろう。それにそもそも、金融というのは国家が信用を保証することではじめて機能している、という面もある。まあそういうわけで、ピケティの主張は、彼自身が「便利な空想」と書いている通り、そのままではユートピア的なものでしかない、ということになる。
もっとも、彼が言わんとしているのは、まずはたたき台を用意するから、これをもとに課題解決に向けて一歩でも進んでいきましょう、ということなのだろう。本当の問題は、富の再配分に向けた政治的状況をいかに作り出せるか、そういった状況に少しでも近づいていけるか、というところにあるわけだ。ピケティの空想的な提案を検討し、改良することで、実践的な経験知や具体的な政策――相続税や所得税の強化、人材育成や労働組合の強化、最低賃金やベーシックインカムなどの方策もあり得るはずだ――に変えていかなくてはならないのだろう。
この理想に近いものすら当分の間は実施できないにしても、有益な参照点として使える。これを基準にして他の提案を評価するわけだ。もちろん世界的な資本税には、たしかにきわめて高い、そしてまちがいなく非現実的な水準の国際協調を必要とする。でもこの方向に動こうとする国々は、段階的にそちらに向かうことも十分できる。(p.540)