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『ある一生』/ローベルト・ゼーターラー

しんと静かな、あるひとりの男の人生の物語。文体も内容に見合った朴訥としてシンプルなもので、派手さはまったくないが、深く沁みいるようなところがある作品だった。

私生児として生まれたエッガーは、アルプスの農場主のもとに引き取られる。幼少時から労働力として酷使され、お仕置として鞭で打たれたために片足を引き摺るようになってしまうが、その肉体は頑強に成長していく。やがて農場を出たエッガーは、干し草小屋付きの小さな土地を借りる。山のロープウェイ工事の会社に就職し、ひたすらに肉体労働を続ける日々のなか、宿屋で働くマリーを愛するようになり、結ばれる。しかしそのわずか数年後、突然の雪崩によって、一夜にして妻と家を失ってしまう。第二次大戦時には東部戦線で捕虜となり、ロシアの収容所で8年間を過ごすことになる。それでも解放後は再び故郷に戻り、観光客向けの山歩きの案内人としてひとり孤独に暮らし、晩年を迎える…。

ほとんど不条理なくらいに過酷な人生だし、あっと驚くような展開や胸がすく逆転劇といったものもない。ただ、さまざまな形で訪れる試練に耐え、捨て鉢にならず、ひたすら愚直なまでに淡々と生き抜いていく男の姿を描いているのだ。舞台こそ20世紀ではあるものの、ひたすら故郷のアルプスの山に暮らし続けるエッガーはもはや山の精霊のようでもあり、その姿にはどこか神話的な美しさすら感じられる。

自己実現とか目標達成とかいった、現代の資本主義社会を駆動する諸々からはまったくかけ離れた、ある意味修行僧のようにストイックな、しかし本人的にはそんなつもりなどまったくなく、ごく自然に、そういうものとして生涯を生ききる、という人生。何かを得たり、誰かと優劣を比較したりしなくても、死の訪れるそのときまでただおもいきり生きるということ、人生というのはそれで十分だし、そういう生き方にもたしかに人の幸福というのはあり得るのだ、そんなことを感じさせてくれる一冊だった。

すべての人間と同じように、エッガーもまた、さまざまな希望や夢を胸に抱いて生きてきた。そのうちのいくらかは自分の手でかなえ、いくらかは天に与えられた。手が届かないままのものも多かったし、手が届いたと思った瞬間、再び奪われたものもあった。だが、エッガーはいまだに生きていた。そして、雪解けが始まるころ、小屋の前の朝霧に濡れた野原を歩き、あちこちに点在する平らな岩の上に寝転んで、背中に石の冷たさを、顔にはその年最初の暖かな陽光を感じるとき、エッガーは、自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかったと感じるのだった。(p.134)