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『氷』/アンナ・カヴァン

作品概要・所感

1967年に出版され、アンナ・カヴァンの生前最後の長編小説となった一作。物語の舞台は、氷によってすべてが覆われ、氷河期が訪れようとしている終末世界。「少女」をひたすら追い求める「私」による、欲望や妄想や幻想がごちゃまぜになったモノローグで物語が語られていく。

SF、実験小説、心理スリラー、黙示録もの…そのいずれとでも言えそうだが、しかしいずれのジャンルにも収まりきらない、かなり独特な質感をもった作品だと言っていいだろう。

狂気に満ちたドラッギー過ぎる語り

『氷』において最も印象的なのは、その語りの異様さだろう。「私」の語りは「信頼できない語り手」などというレベルではなく、もはや現実との回路が完全に溶解、混濁してしまっており、もうとにかくひたすらにドラッギーなのである。ある場面で「少女」を追いかけていたかとおもえば、次の瞬間にはすでに彼女を捕らえた後のように語っている。あるいは、「少女」の姿を幻視していたかとおもえば、それがみるみる間に氷の世界に埋もれてしまったりする。現実の出来事を語っていたとおもっていたら、気づけば妄想の中に入り込み、幻想の世界を彷徨っていたりする。

この語りの性質について、簡単に分類してみると以下のようになるだろうか。

  • 論理性や因果関係の放棄:通常の小説にあるような論理的展開や出来事の連動が放棄されている(そのため、読者はまるで先のストーリーを予想することができない)

  • 時間と空間の跳躍:場面転換が唐突に起こり、説明なく物語が飛躍する(読者は、え、いままでの話はどこへ?もしかして幻想だった?いや、それともこっちが幻想?などと混乱されられることになる)

  • 現実と幻想の境の消失:「私」の目の前の風景が、突如として幻想や妄想へと変化する(読者には、いつから「私」が幻想/妄想について語り始めているのかもよくわからない)

…要するに、ただ全体の方向性だけが決められていて、あとは随時イメージされた描写がその場その場でなされていく、という感じなのだ。だから読者は、ひたすら「私」の語りに振り回され続ける他ない。説明的なところなど一ミリもない、オブセッションに満ちたドラッギーな語りが生み出すイメージの連鎖、それが『氷』なのである。

しかし、少女は執拗に、無垢とほど遠い想念で私の心を乱しつづけた。少女の顔がとりついて離れない。ゆるやかなカーブを描く長いまつげ、おずおずとした魅惑的なほほえみ。次いで、私が意のままに作り出せる様々な表情が浮かぶ。ほほえみが不意に傷ついた表情に変わり、たちまち怯えに、涙に移行してしまう。この誘惑の強さに私は動揺する。振り下ろされる死刑執行人の黒い腕、少女の手首をつかむ私の両手……この夢が現実に変わるかもしれないことが恐ろしい……少女の内にある何かが、彼女を犠牲者にすることを要求する。こうして、少女は私の夢を忌まわしいものに変容させ、自分では望んでもいない暗い世界の探索へ私を導いていく。今ではもう私たちのどちらが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。(p.120)

この特殊すぎるモノローグによって、読者は「私」の狂気の中へと引き摺り込まれていくことになる。読者は「私」の視点を通してしか世界を見ることができず、その視点自体が歪んでいることは自覚しながらも、他に頼るべき視点を持てないのだ。そういう意味で、本作を読むことは、氷の上を恐る恐る歩くようなものだとも言えるだろう。足元には底知れぬ闇が広がり、いつ氷が割れて飲み込まれてしまうか分からない、という不安感が常に付きまとってくるのだ。

氷を止める手だてはどこにもない

そのような、全編に満ちた不安感、迷宮のなかを彷徨っているようなあてのない感じはカフカの長編を読んでいるときの感覚にも少し似ている。カフカの迷宮が外部の不条理なシステムによって構築されているものだとすると、本作の迷宮は凍てついた執着心が内側から作り出した、出口のない精神世界だと言えるだろう。何かを追い求めているが、それが手に入る瞬間は決して訪れない。あるいは、手に入ったかとおもえば、それがまるで幻影だったかのように消え去ってしまう。この堂々巡り感、虚無感が、作品全体に独特の浮遊感、落ち着かなさをもたらしている。

終末的な世界観、閉塞感という意味では冷戦期のSFらしいムードもある。どこまでも凍てつき、何もかもが死に絶えていく世界のイメージは、語り手の精神世界とも直接に結びついている。(「少女」は、血の通った一人の人間というより、「私」の衝動を反射する鏡、ほとんど実体を持たないシンボルのような存在として扱われている。)その心理の冷たさと、物理的な世界の凍結はそのままシンクロしているだろう。

氷は海にも山にも妨げられることなく、日一日と地球の局面をひそやかに這い進んでくる。急ぎもせず、足踏みすることもなく、着実なペースで少しずつ前進し、わずかな痕跡も残さずに町々を消滅させ、燃えたぎる溶岩を噴出していた噴火口を埋めていく。この氷を止める手だてはどこにもない。非情な秩序のもとに行軍し、その進路にあるすべてを倒壊させ壊滅させ跡形もなく消し去っていく巨大な軍団を押しとどめることは誰にもできない。(p.150)

制御不能な氷の進軍とともに、ちょっと他では見られないような、異様でダークで狂っていて、それでいてなぜかまったくウェットではなく、とにかくひたすら寒すぎる世界の終わりのイメージが描き出されていく。基本的に不気味ではありつつも、どこかに美しさも感じられる。読んでいる間ずっと、寒気と陶酔が入り混じったような感覚がまとわりついてくる、なかなかに奇妙な作品である。