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『浴室』/ジャン=フィリップ・トゥーサン

浴室 (集英社文庫)

浴室 (集英社文庫)

『浴室』の物語は、ある日突然、主人公の青年が浴室に引きこもってしまう、というところからはじまる。なるほど、胎内回帰願望のメタファーとしての浴室、とかそういう感じなのかな、などとおもって読み進めていくと、数ページ後には彼はあっさりと浴室を出て、引きこもり生活をやめてしまう。同居している恋人とか、家にやってくるポーランド人たちともふつうに――それなりにふつうに――コミュニケーションをとっていたりする。やがて、主人公はこれまた突然イタリアに旅発ち、現地で医師の夫婦と仲良くなったりもするが、結局また家に帰る。…こんな風に書いてもぜんぜん意味がわからないのだけれど、でもじっさいそういう展開の小説なのだ。

作品のキーとなっているのは、物語の序盤と終盤で繰り返される、浴室への引きこもりであり、オーストリア大使館からの手紙の到着であり、不動の状態を目指す運動、という概念であるようには感じられるのだけれど、それらにいったいどのような意味があるのか、はっきりとしたことは決して書かれることがない。全体的なムードは、優雅でひねくれていて、ドライでユーモラス。淡々としていて、人を食った感じ、虚脱感もある。断章形式のミニマルな構成で、主人公の一人称で語られてはいるけれど、その感情や内面を表すような心理的な説明づけがまったくなされないため、なんとも計り知れないところがある。(先日エントリに書いた、ヘミングウェイの長編とはえらい違いである。)

たいていの物語というのは、「行きて帰りし物語」であって、物語を通して主人公は何らかの形で移動を行い、その過程で何かを得たり失ったりするものだけれど、本作はそういった前進/後退、成長/変化といったものから一定の距離を取ろうとしているようだ。主人公の内面がまるで不明なこともあって、本作には悩みとか葛藤というものがないというか、神経症的だけれどまったくウェットなところがないというか、とにかくカラッとしているのだ。前衛的ではありながらも、ヘヴィなところはぜんぜんなく、どこまでも軽やかな小説になっている。

俺がとくに好きだった文章を書き写しておく。

体を横たえ、リラックスして、目を閉じていた。そして、ダーム・ブランシュ〔白い貴婦人〕のこと、あの、丸く固めたヴァニラ・アイスの上に、やけどしそうに熱いチョコレートをたっぷりとかけた、デザートのことを考えた。この数週間というもの、考え続けているのだ。といっても、食べたくて仕方がないというのではなく、科学的な見地から、この取り合わせに完璧なるものの一例があると思うのだ。モンドリアンの絵。ヴァニラ・アイスにとろりとかかったチョコレート、熱いものと冷たいもの、堅固さと流動性、不均衡と厳密さ、正確さ。(p.14-15)