作品概要・所感
挑発的なタイトルの一冊だが、「読書をサボるための言い訳マニュアル」というわけではない。バイヤールが本書で扱っているのは、本を「読む」こと「語る」こととは、そもそも本当はどういうことなのか?という問題である。
そもそも、「本を読んだ」とはどういう状態を指すのか。一度通読したら「読んだ」と言えるのか?では、流し読みした場合は?目次だけチェックした場合は?一度目を通したからといって本の内容がすべて頭に入ることなどないはずだが、いったいどの程度まで頭に入れば「読んだ」ことになるのか?人は読んだ内容を時間とともに忘れていくものだが、忘れてしまったならばそれは「読んでいない」状態に戻った、ということになるのか…?
バイヤールは、こうした問いを突き詰めていくことで、「読んだ/読んでいない」という二分法そのものに疑問を投げかける。本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である、と彼は言う。
どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、開きもしないということと同時的である。読む行為はつねに「読まない行為」を裏に隠しているのだ。「読まない行為」は意識されないが、われわれはそれをつうじて別の人生では読んだかもしれないすべての本から目を背けているのである。(p.27)
読書とは常に「読まない」という選択を孕んだ行為だというわけだ。
本書のタイトルには「読んでいない本について堂々と語る」とあるけれど、バイヤールは、「教養とは、書物を<共有図書館>のなかに位置づける能力である。(p.66)」と述べている。つまり、本の内容をすべて把握していなくても――というか、上述したように本の内容をすべて把握した状態になる、ということは実質的に不可能である――その本が他の本とどのように関係しているのか、を理解していれば、十分に「語る」ことはできるだろう、というわけだ。たとえば、バイヤールは『ユリシーズ』を読んでいないけれど、同作が「20世紀文学における特異点として語られる大作」であり、「モダニズムの極北」とされている、そういった位置づけについては知っているから、会話にも批評にも十分に参加できるのだ、と言う。
書物はあくまで通過点でなければならない
また、バイヤールはオスカー・ワイルドの言葉を引きながら、「批評の唯一にして真なる対象は、作品ではなく、自分自身なのである」(p.259)とも述べている。人は通常、「本について語る」ことを求められるものだが、真の批評とは、本そのものについて語ろうとすることではなく、むしろ、その本を通して「自分自身について語る」ことなのだ、というわけだ。(だからこそ、「読んでいない本について堂々と語る」ことすら可能だ、ということになる。)
というのも、作品はいずれにしても言説のなかで姿を消し、つかのま現われる幻覚の対象に場所を譲るのである。後者こそは、あらゆる投射を引き寄せ、さまざまな介入に応じて不断に変容してゆく幻影としての作品にほかならない。であってみれば、作品を自己についての探求のよすがと捉え、手にすることのできる数少ない要素から出発して、またそれらの要素がわれわれの親密でかけがえのない部分について教えてくれることに目を配りながら、自分の<内なる書物>の断章を書くよう試みるにしくはないのである。耳を傾けるべきは自分自身にたいしてであって、「現実の」書物にではない。(p.265)
どんなに客観的に語ろうとしたところで、人は結局のところ、自分のフィルタを通してしか本を把握し、理解し、説明することはできない。であれば、いたずらに本を読むことを神聖視するのではなく、むしろ積極的に本を活用して自分自身の思考を形作っていき、自分の<内なる書物>を生み出そうとしていく方が誠実なのではないか(というか、本当はそれしかできないはずだろう)、ということだ。
読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある。良い読者が実践するのは、さまざまな書物を横断することなのである。良い読者は、書物の各々が自分自身の一部をかかえもっており、もし書物そのものに足を止めてしまわない賢明さをもち合わせていれば、その自分自身に道を開いてくれるということを知っているのだ。(p.263-264)
そもそもなぜ人は本を読むのか、ということを考えてみれば、それは自分自身に何かしらの影響を与えるためだと言っていいだろう。そう考えてみると、本について「語る」ということにおいても、その本が自分に対してどのような影響をもたらしたのか、その本を通して自分がどんなことを理解したり考えたり感じたりしたのか、要は、自分がその本とどのような対話をしたのか、ということこそが本当に重要なことであるはずだ。
ちなみに、本書を俺がはじめて「読んだ」のは2016年のことだったのだけれど、今回読み直してみて、内容をほとんどまったく覚えていなかったことに気がついた。ひどい話だが、ただ「読んだ」だけで、自分の<内なる書物>について語らずにいると、10年も経たないうちにそうなってしまう、というわけだ。
