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「泥の河」/宮本輝

作品概要・所感

宮本輝のデビュー短編。いろいろな場面に妙に既視感があるな…と思って調べてみたところ、中学入試などの国語の問題によく利用されていた作品ということだった。10歳前後の自分が本作に対して何らの感興も覚えなかったであろうことはほぼ確実なのだけれど、40手前のおっさんとなったいま読んでみると、いや、これはなかなかに切なく、染み入る作品だった。

時は1955年(昭和30年)、高度経済成長期に突入する直前。大阪は中之島、安治川の河口近くにある食堂の子である信雄と、河に停まっただるま船で暮らす子、喜一の家族とのひと夏の物語だ。作品の構図はシンプルで、経済成長の波になんとか乗ることができた者たちと、乗り損じた者たちとの明暗が、泥の河での生活を通して描かれていく。

80ページあまりのなかに、ねっとりと湿った夏の空気と死の匂い、行き場のない怒りや罪の意識、ただ見ていることしかできないことの哀しみ、などがぎゅぎゅっと無駄なく詰め込まれており、一読して、シンプルに上手い作品だなーとおもわされる。完成度の高さゆえか、登場人物や出来事の配置にはやや図式的な印象が感じられるところはあるけれど、それでも忘れがたいシーンがいくつもある。

いちばんしあわせなとき

たとえば、以下の場面の哀しい美しさ。もう、ごく単純に会話が良いのだ。喜一の姉である銀子と信雄とのシーン。

調理場の奥でしゃがみ込んでいた銀子が、驚いたように顔をあげた。
「何してんのん?」
銀子は恥かしそうに笑った。そして信雄を招き寄せた。米櫃の蓋があけられていた。
「お米、温いんやで」
そうささやいて、銀子は両手を米の中に埋めた。
「冬の寒いときでもなあ、お米だけは温いねん。のぶちゃんも手ェ入れてみィ」
信雄は言われるままに、手を米櫃に差し入れると肘のへんまで埋めた。少しも温いとは思わなかった。汗ばんでいた手は逆に冷やされていった。
「冷たいわ……」
信雄は手を引き抜いた。両手は真っ白になっていた。
「うちは温いわ」
銀子は両手を埋めたままじっとしていた。
「お米がいっぱい詰まってる米櫃に手ェ入れて温もってるときが、いちばんしあわせや。……うちのお母ちゃん、そない言うてたわ」
「……ふうん」(p.74-75)

地の文を含めてまったく無駄がないのがもう上手過ぎるという感じなのだが、「冷たいわ……」「うちは温いわ」というやり取りのスピード感がとくに泣ける。同じ米櫃に手を入れていても、ふたりが感じているもの、ふたりが属する世界はまったく違う。その違いを、宮本はただこのごく簡潔な会話だけで示してみせているのだ。