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『嵐が丘』/エミリー・ブロンテ

嵐が丘(上) (岩波文庫)

嵐が丘(上) (岩波文庫)

いやーおもしろかった!さすがは古典中の古典、これを読んで何の感興も抱かない人などどこにもいないだろう、っておもえるくらい、パワフルで心揺さぶられずにはいられない、文字通り嵐のように激しい小説だった。物語の舞台は19世紀のイングランド北部、ヨークシャー地方の荒涼として陰鬱な土地に立つ、「嵐が丘」なる屋敷。そこに暮らすアーンショー家と謎の拾い子ヒースクリフ、そして隣家のリントン家によって繰り広げられる愛憎劇が描かれていく。

物語の中心にあるのはアーンショー家の娘キャサリンとヒースクリフとの激し過ぎる愛だと言うことができるだろうけれど、本作においてはすべての主要な登場人物たちが、ただただ己の感情だけにどこまでも忠実な、まさにエゴイスティックの極みともいうべき性格の持ち主であり、それが物語のテンションを異様に高いものにしている。キャサリンは超傲慢だし、ヒースクリフは信じがたいほどに横暴で残忍、ヒースクリフの息子リントンはいらいらするくらい卑劣で虚弱なやつで、キャサリンの妹イザベラやキャサリンの娘キャサリン・リントンも、ヒースクリフと関わっていくうちに、生来の気性の激しさが呼び起こされたかのように荒々しさを発揮するようになっていく。とにかく主人公たち全員がもれなく利己的で身勝手な激情家というわけで、彼らは物語のなかでひたすらに衝突を繰り返し、傷つけ合い続けることになる。

読んでいて何度もおもったのは、こいつら全員、おもったことをすぐに口に出し過ぎだろ!ということ。おまけに、めちゃくちゃ口が悪いのだ。たとえば、こんなところ。

もしわたしがあなたならね、ヒースクリフ、キャサリンのお墓に突っ伏して、忠犬みたいに死ぬわ。もうこの世に生きてる甲斐もないでしょう?あなたの人生でキャサリンこそ喜びのすべてだとしか思えないふるまいをしてきたくせに、あの人がいなくなった今、よくもこの先永らえるつもりになれるものね(下巻 p.51)

ヒースクリフさん、あなたには愛してくれる人が一人もいないんですね。わたしたちよりみじめな人だから、残酷なことをするんだわ――そう考えると、わたしたちはどんなみじめな目にあわされても気がおさまるでしょうよ。ほんとにみじめなのよね?悪魔みたいに孤独で嫉妬深いんでしょう?誰にも愛されず、死んだって誰にも泣いてもらえない――あなたみたいにはなりたくないわ!(下巻 p.267)

どちらも、ヒースクリフに人生を狂わされた女による呪詛の台詞だ。ヒースクリフの悪党っぷりというのは誰しもが認めるところだろうけれど、彼に相対することになる女たちもまた、恐るべき負のパワーの持ち主だというわけだ。

そんな激しすぎる感情のほとばしりとそのぶつかり合いだけに特化した物語の嵐は、主人公たちを神話的で原初的な存在にまで高めていくのと同時に、本筋と無関係な人物たちを容赦なく弾き飛ばしていってしまう。その弾き飛ばし具合というのは本当に威勢がよく、たとえばリントン家の両親なんて、物語が佳境に入るやいなや、わずか数センテンスで物語から排除されてしまう。

実はリントン家の奥様が何度も来て下さり、適切な手を打ったり、指図をしたり叱ったりして下さったのです。キャサリンが回復期に入るとスラッシュクロスのお屋敷へ連れてくるようにとすすめて下さり、わたしたちはありがたくお受けしました。でも、親切が裏目に出て、奥さまも旦那さまも熱に感染され、数日の間もおかずにお二人とも亡くなってしまいました。(上巻 p.178,179)

笑っちゃうくらいに強引で、ほとんどギャグのような展開になっているけれど、物語の勢いと迫力は、この程度の強引さなど歯牙にもかけないのだ。

そういうわけで、クレイジーで荒々しく、どこまでも強引で、洗練や洒脱などという言葉からは一万光年かけ離れたところにあるのが、『嵐が丘』の世界だと言えるだろう。この世界において登場人物たちが抱く「愛」なるものはひたすらに利己的なもので、彼らは最初から最後まで自分の内側をしか見つめることのできない、そういった存在である。だからもちろん、読者は彼らに単純に感情移入することなどできはしない。読者は、彼らによって演じられる愛憎劇が巻き起こす嵐の激しさにただただ慄き、圧倒されながら、しかし夢中になって物語を読み進めていくことしかできないのだ。

まあとにかく、本当に、「登場人物たちが激しくぶつかり合い続けるだけ」の小説ではあるのだけれど、それがこれほどまでに荘厳かつ苛烈に描き出されている作品というのは、ちょっと他には見当たらない。まさに堂々たる異形、まったく比類するもののない、これぞ小説というべき小説だろう。