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「ワーニカ」/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

クリスマスの前夜、9歳の少年ワーニカは、奉公先での生活の辛さに耐えかねて、故郷のおじいちゃんに宛てて手紙を書くことにする。なつかしい故郷でのクリスマスにおもいを馳せつつ、眠気と戦いながら手紙を書き終えたワーニカは、宛名に「村のおじいちゃん、コンスタンチン・マカールイチさま」とだけ書いてポストに投函、おじいちゃんがきっとすぐに迎えに来てくれるって希望に胸踊らせつつ、眠りにつくのだった…。という一編。

意地悪な言い方をすれば、上質な"泣ける"短編、というところだけれど、さすがはチェーホフ、上質も上質、これが心打たれずにいられようか、ってクオリティの作品に仕上げてきている。作品を構成する要素たちに、とくに風変わりなところはない。幸福だった過去、丁稚奉公の辛さ、寒さ、眠さ…って、たとえば「ねむい」(チェーホフの短編のなかでも、かなりの傑作!)とほとんど同じだ。が、これらの定番要素をまとめ上げ、作品の泣ける度を一気に押し上げているのが、決して届くことのない手紙、これである。

「ぼくのおじいちゃん、コンスタンチン・マカールイチさま!」と少年は書いた。「お手紙を書きます。クリスマスおめでとうございます。おじいちゃんに神さまのしあわせがありますように。ぼくはお父ちゃんもお母ちゃんもいないので、おじいちゃんしか残っていません」(p.53,54)

「ゆんべぼくはぶたれました。おやかたがぼくの髪をひきずって庭へひきずってって、かわひもでぶったのです。そして今週、おかみさんにニシンのうろこをとるようにと言われたので、しっぽのほうからやってると、おかみさんがニシンをとりあげて、その鼻ずらでぼくをなぐりました。しょくにんたちはぼくを笑いものにして、酒屋へウォトカを買いにいかせたり、おかってからキュウリをぬすんでこいと言いつけたりするし、おやかたはなんでもそこらにあるものでぶちます。それに食べるものがなんにもありません。(p.56)

ぼくのおじいちゃん、どうしてもしんぼうできません。きっと死んでしまいます。歩いて村にかえろうと思ったけど、ながぐつもないし、寒さがこわいです。大きくなったら、ぼくは恩がえしにおじいちゃんをやしなって、だれにもばかにさせないようにします。もしもおじいちゃんが死んだら、やすらかに眠れるように、ペラゲーヤお母ちゃんのときと同じくらい、いっしょうけんめいお祈りします。(p.57)

ぼくのおじいちゃん。おやしきにプレゼントのついたクリスマスのもみの気をかざったら、ぼくに金色にぬったクルミをもらってきて、きみどりいろの小さな長持のなかにしまっといてください。オリガ・イグナーチエヴナおじょうさまにおねがいして、これはワーニカのぶんだと言ってください」(p.59)

…まともな宛先の書かれていないこの手紙が、おじいちゃんのもとへと届くことはないだろう。届くことのない手紙。それは、ワーニカの訴え、その窮状が決して誰にも伝わることがないだろうことを暗示している。ワーニカの手紙は誰のもとにも届かず、また、その願いが聞き届けられることも決してない。だが、ワーニカがそれを知ることも(少なくとも、いまのところは)またない、というわけだ。

そうそう、最近出た沼野充義の翻訳による『【新訳】チェーホフ短篇集』に、ワーニカが書いた宛名の「村のおじいちゃん、コンスタンチン・マカールイチさま」についておもしろい解説が載っていたので引用しておく。

ここに出てくる「コンスタンチン・マカルイチ」というのは、じつはファーストネームの「コンスタンチン」と父称の「マカルイチ」を組み合わせたもので、敬意を示す呼びかけである。農民の幼い子供が祖父に家庭で使うような呼びかけではないので、これはワーニカにとってはずいぶん頑張って大人ぶって使ったちょっとかしこまった呼びかけの形である。ただし、問題はここには苗字がない、ということだ。「名前+父称」は呼びかけとしては頻繁に使われる形だが、手紙の宛名にはきちんと苗字を書かなければならないというのは、ロシアでも当然のことで、苗字がなかったら配達されるわけがない。(『【新訳】チェーホフ短篇集』p.139)

むーん、「マカルイチ」って苗字じゃないんだ!なるほどねー、って感心してしまう。この部分、悲しさと滑稽さとが互いを高め合うように作用しているんだね。さすがはチェーホフ、ただの泣ける物語ではなく、甘さと辛さとを絶妙にブレンドさせているわけだ。