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「クリスマスの思い出」/トルーマン・カポーティ

ティファニーで朝食を

ティファニーで朝食を

きのう、ずいぶんひさしぶりにカポーティの「クリスマスの思い出」を読んだのだけど、うわっ、これ、こんなにぐっとくる物語だったっけ!?と驚いた。この作品を俺は少なくとも3回は読んでいるのだけど――1回目は中学か高校の頃、2回目はこの本(村上春樹訳の『ティファニーで朝食を』)が出た大学3年のとき、で、きのうが3回目――今回はじめて心動かされたような気がする。以前に読んだときには、作品世界のあまりの完成っぷり、完結っぷりに、作為的なもの、あざとさみたいなものを感じてうんざりしてしまっていた気がするのだけど、きのうは読んでいるあいだにそういった要素を不快に感じることがまったくなかった。ふしぎなものだ。

この話は、語り手のバディー(7歳)と、その親友のいとこスック(60歳オーバーのおばあちゃん)がいっしょに過ごした最後のクリスマス、その、あたかも外界と隔絶されたかのように静かで幸福な箱庭的世界のことを、もうすでに大人になってしまった「僕」が回想している、という形をとっている。もちろん、「僕」が過去を振り返って見るその地点においては、そんな穏やかで幸福な世界などとっくに失われてしまっているわけで、だから作品全体としては、"既に失われてしまった少年時代のイノセンス"みたいなものに焦点が当てられている、と言っていいだろう。

回想をメインとする物語が往々にしてそうであるように、この物語も非常にセンチメンタルで、過去を幻のように美しかったものとして描き出している。それは、丹念に計算され、練りこまれ、やすりをかけられ、かっちりと構築された美しさだ。正直言って、そういうのってあまり好みではない。でも、俺は今回、この小さな物語にカポーティが封じ込めようとした幸福のイメージにすっかりやられてしまったのだった。

なんて言ったらいいか、幸せだった過去を振り返ってみせる、っていう視線のあざとさも、絶妙にコントロールされた子供らしい無邪気さも、ノスタルジアってやつがどうしたって内包してしまう嫌らしさのようなものも、ここに納められた文章から湧き出てくる、溢れるばかりの幸せのイメージからすれば些細なことじゃんね、っておもわされてしまったのだった。具体的にどういうところ、って指し示すのはむずかしいし、部分的に抜き出してみたところで本来の味わいからは遠ざかってしまうだろうとはおもうのだけど、ここでは俺がいちばん好きな箇所を引用しておこうとおもう。

クリスマス・イブの午後に、僕らはなんとか五セントを工面し、肉屋に言ってクイーニーのための贈り物を買う。毎年同じ、しっかりかじることのできる上等の牛の骨だ。その骨は新聞の漫画ページに包んでツリーのずっと上の方の、銀の星の近くに載せておく。クイーニーは骨がそこにあることを知っている。ツリーの足元にうずくまって、よだれを垂らさんばからいのうっとりした目で上を見ている。寝る時間になってもがんとしてそこから腰を上げようとはしない。僕の興奮ぶりだってクイーニーに負けない。僕は布団を蹴りあげ、枕をひっくりかえす。まるで暑くて寝苦しい夏の夜みたいに。どこかで雄鶏がときの声を挙げる。でもそれは間違いだ。太陽はまだ世界の裏側にあるのだから。「バディー、起きてるかい?」と僕の親友が壁ごしに声をかける。彼女の部屋は僕の部屋の隣にある。そして次の瞬間には、彼女は蝋燭を手に僕のベッドに腰かけている。「ああ、私はこれっぽっちも眠れやしないよ」と彼女は宣言する。「私の心は野ウサギみたいにぴょんぴょん跳ねてる。ねえバディー、どう思う?ローズヴェルト夫人は明日の夕食の席に私たちのケーキを出すだろうかねえ?」僕らはベッドの上で肩をよせあう。彼女は僕の手をとても優しく握りしめる。「お前の手も以前はもっとずっと小さかったような気がするねえ。お前が大きくなっていくことが、私には悲しい。お前が大きくなっても、私たちはずっと友達でいられるだろうかねえ」。ずっと友達さ、と僕は答える。「でも私はつらいんだよ、バディー。お前に自転車を買ってやれないことでね。私はパパがくれたカメオを売ろうともしたんだよ」――彼女は口ごもる。何だか身の置きどころがないみたいに――「今年もまた凧を作ったんだよ」。それから僕も打ち明ける。僕も彼女のために凧を作ったのだと。そして二人で大笑いする。蝋燭はもう手に持っていられないくらい短くなっている。火が消えると、星の光がそのあとを埋める。星が窓に光の糸を紡いでいる。声なくキャロルを歌っているみたいに。でもそれも、静かに穏やかに訪れる夜明けに消されていく。(p.205,206)

ここはまじで、何回読んでも震えるほど素晴らしい。