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『桜の園』/アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

没落貴族のラネーフスカヤ夫人が、娘のアーニャと共に、5年ぶりに「桜の園」へと帰ってくるところから物語は始まる。6年前に夫と小さな息子を立て続けに亡くした夫人は、失意の内にパリへと逃亡、愛人のもとで暮らしていたのだ。ひさびさに帰還する領主を「桜の園」の人々は暖かく出迎えるが、彼らがそこで過ごすことのできる時間はほとんど残されてはいなかった。「桜の園」は借金のカタに競売にかけられることになっていたのだ。やれ困ったことだ、いったいどうしたものか、まったく昔はよかったよ…などと皆で語らい合っているうちに時は過ぎ、いよいよ競売の日が訪れる…!

本作でまずおもしろいのは、誰も本気で「桜の園」を守りたい、とはおもっていなさそうなところだ。いや、正確には、「桜の園」を守るための具体的な行動を誰ひとり取ろうとしない、というところだ。ラネーフスカヤも、その兄ガーエフも、娘のワーニカとアーニャも、それぞれにいろいろな気持ちを抱えてはいるものの、その気持ちをどうにかするための何の行動も起こそうとはしないのだ。

だから、全編に渡って描かれていくのは、彼らの無為なおしゃべりやだらだらした日常の様子、ということになる。ガーエフは本棚の前で昔日を偲んで演説をぶち、トロフィーモフはアーニャに向かって明るく光り輝く未来予想図を語ってみせる。ラネーフスカヤは借金を抱えていながら派手な金遣いを改めるでもないし、古くから「桜の園」を仕切ってきた老従僕のフィールスは、ボケが進んでギャグ担当のようになってしまっている。彼らの思い出語りや思いつきのアイデア、うわさ話や空想や思想などなど、空虚な言葉たちが舞台上を数多く飛び交っていくことになるわけだけれど、肝心要のことには誰も手をつけようとしないのだ。

そうして、「桜の園」は、ただひとりこの状況に対してアクティブに動いた人物、新興商人のロパーヒンによって買い取られることになる。ラネーフスカヤたちが「桜の園」を去るエンディングは、ひとつの時代の黄昏を象徴的に描いているとも言えるだろうし――ロパーヒンは、先祖代々農民の家系だったが、農奴解放によって新たな階級として不意に現出した人物である――、もはや状況をどうにかしようという気力やモチベーションを失ってしまった人々は、ただただ流されるに任せてこれからも生きていくのだろう…という未来を予感させるものになってもいる。

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とはいえ、トロフィーモフとアーニャについては、これから新しい時代へと踏み出していく希望に満ちた若い世代である、という読み方もできなくはないだろう。トロフィーモフはアーニャに理想と幸福を力強く語ってみせるのだし、じっさい、俺も高校生の頃に本作を読んだときは、そんな風に感じていたものだった。トロフィーモフのこんな台詞をノートにメモしていたのを覚えている。

もしあなたが、家政の鍵をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。(p.72)

ただ、今回読んで感じたのは、彼についてもまた、観念の世界のロマンティックな響きに憧れを抱いてるばかりの愚か者、憂うばかりで何も行動することのないインテリ、という風に読むことができるよな、ということだった。アーニャにしても、そんな彼のことをどこまで本気で信じているのかどうかはっきりとしない(というか、うんうんそうねそうねって、聞き流しているようにも読める)。そんな風にかんがえてみると、作品全体に漂う、薄ら寒い感じがより強化されるような気もする。まあ、昔と比べると、作品のセンチメンタルな側面よりも、メランコリックなイメージの方が強く印象に残った、ということだ。

もっとも、これはどちらが正解というような話でもないだろう。トロフィーモフには、両方の側面――若さゆえ、インテリゆえの未来への希望と、まさにそれゆえの愚かしさ――が与えられているのだ。それはたとえば、以下のようなやりとりを見てみるとわかりやすい。

トロフィーモフ 領地が今日売れようと売れまいと――同じことじゃありませんか?あれとはもう、とっくに縁が切れて、今さら元へは戻れません。昔の夢ですよ。気を落ち着けてください、奥さん。いつまでも自分をごまかしていずに、せめて一生に一度でも、真実をまともに見ることです。
ラネーフスカヤ 真実をねえ?そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか目が霞んでしまったみたいで、何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけれど、でもどうでしょう、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら?あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも、元をただせば、まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿されているので、怖いものなしなんだからじゃないかしら?(p.84,85)

彼らの台詞は、たしかにそれぞれにとっての「真実」を語っているけれど、しかし問題は、言葉によって、自分のおもっているまさにその感じ、というのを丸ごと相手に伝えることは不可能だし、相手のそれを心から理解することも決してできはしない、ということだ。ラネーフスカヤにはそれがわかっているけれど、若いトロフィーモフには、そのような「真実」はまだピンとこない、というわけだ。(自分は「真実」なるものを正しく見定めることができる、というかんがえ自体が、若さゆえに持ち得る希望であり、愚かさでもある。)

そんな「真実」は、虚しく、悲しいものだけれど、でも、そもそもコミュニケーションというものはそんなものである、とチェーホフはかんがえているようだ。だから、こんな風に互いのもとにまで決して届くことのない言葉たちがどこまでも空回りし続けることで、悲喜劇的な舞台の空しさはひたすらに高められていくことになる。エンディングで悲しげに鳴る、弦の切れた音は、そんな物語の最後にいかにもふさわしいと言えるだろう。

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…ただ、俺としては、こういう結論に落ち着いてしまうと、少し不満というか、居心地の悪さを感じることになる。何と言ったらいいか…。

チェーホフは、ラネーフスカヤたちの愚かさや悲しみを、あえて醒めた目で見つめ、悲劇ではなく喜劇として描き出そうとしている。そこから生じるのはメランコリックで乾いた笑いであり、どこへ向かうこともなくただ消えていくしかない、いわく言いがたい情感だ。

ラネーフスカヤたちは、自らの運命に対し、それぞれじつに劇的な言葉を発するけれど、劇的ということはつまり、それらはいずれも通俗的で凡庸な、お定まりの台詞、紋切り型に過ぎないということでもある。おまけに、そんな風に揃って凡俗な彼らであるのに、互いにしっかりと気持ちが噛み合うということだけは決してあり得ず、それぞれの「真実」を胸に抱えたままばらばらに生きていく他ない。人間とは、どこまでも月並みで、情緒に流されやすく、互いに分かり合うことのできない、愚かな存在である、それはなんと悲しく、滑稽で、憂鬱であることか!

…というのが、チェーホフがこの物語に込めた想いだった、ということになるのだろうか?そうであるとすれば、それに対して、どんな感想を述べることができるだろう?うん、それはそうだよね、まったく笑っちゃうよね…としか言いようがないんじゃないか?本当にそれだけでいいのか??…何ていうか、俺はそんな風におもってしまうのだ。