江國の愛犬、オスのアメリカン・コッカスパニエルの「雨」との日常と、その生活のなかでの音楽について書かれたエッセイ集。江國の小説や文章には、なんだか雨が似合うイメージ――ひそやかに、静かにしっとりと降る雨、世界をふわりと白く曇らせるような雨――があるようにおもえるけれど、そんな彼女が犬に「雨」と名付けているのはとてもしっくりくる。良い名前だ。
江國と「雨」との距離感がよい。「雨」が自分とはまったく異なる感覚や嗜好をもった生きものであるということ、その懸隔をまるっと受け入れた上で、それでも、「人間の都合と動物の野性とのせめぎあい」をしながら、共に日々を過ごしていく、というその感じが。
音楽の好みは全然違うのに、雨と私はよく一緒に音楽を聴く。どうしてかというと、雨は犬で、私は人間なので、一緒にできることがあまりないから。雨は本が読めないし、私は牛の肺を乾したものなんか噛めない。音楽なら一緒に聴くことができる。(p.8) 雨には雨の意思や感情があり、私には私の意思や感情がある。でも、私と雨はそれを言葉で伝えあうことはできない。一緒にいても、実は全然別の世界を生きているのかもしれない、と思うことがある。この部屋も、散歩やごはんといったきまりごとも、お天気も、電話の音も、雨にとってと私にとってとでは全然別の世界を構成しているのではないか。おもしろいなと思うのは、もしそうでも、二つの別々の世界に、同じ音楽が流れていることだ。(p.153)
「雨」との日々のちょっとしたエピソードが愛らしいのはもちろん、江國と「雨」が一緒に聴く音楽に関する文章もたのしくてよい。なぜか料理の味で音楽を表現している箇所が結構多くて、こういう感覚は自分にはまったくないなー!と感心したりした。
シェールの歌は、耳と心臓に気持ちがいい。古い表現だけれど、すごくパンチが効いている。それも、おいしい中華料理みたいなトラディショナルなパンチ(へんな比喩だな。でも、たとえば、ライトでいまふうの、辛いだけの国籍不明エスニック料理みたいな軽薄なパンチじゃ絶対ないと思う。)(p.39) 「いいね、門あさ美」 私は雨に言う。 「大きくて食べごたえのあるサイコロキャラメルみたいじゃない?それもリニューアルした、ピンクの桜味の」(p.75-76)といった具合で、はっきり言って俺にはぜんぜんぴんとこないのだけど、いちいちおもしろいのだ。