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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『誰も知らない』

作品概要・所感

Amazon primeにて。是枝監督の2004年作。『そして父になる』や『万引き家族』に連なる、家族もの映画の初期作品だ。未成熟でどこか少女のような雰囲気を残した母親が、わずかなお金を残し、4人の子供を放って男と暮らすようになってしまう。学校にも通っていない無国籍児童である子供たちは、彼らなりにたくましく生きていくが、お金を稼ぐ手段があるわけでもなく、生活は少しずつ確実に困窮していき、やがて…!

日常の微かな光をすくい上げるディテール

「巣鴨子供置き去り事件」という実際の事件をベースにしており、社会問題を扱っているわけだけれど、基本的には観客を泣かせにくるシンプルなヒューマンドラマだと言っていいだろう。物語のプロットはごく単純で、設定から想像できる範囲の展開に留まっているものの、本作の魅力は別にあって、それは、登場人物たちが過ごす日常の描写、そのひとつひとつのディテールの繊細さにある。柳楽優弥のひとりごとや、街をうろついたりボール遊びしたりする姿、YOUのまるで悪気のなさそうなしゃべり方、子供たちがカップラーメンにご飯を入れて美味そうに食べる様子、荒れた家の床に放置された洋服やお菓子の散らかり具合…といったものたちが、淡々と、しかし極めて丁寧に映し出され続けていくのだ。

それらの細やかなディテールによって喚起されるのは、妙に生々しいリアリティであり、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような情感、ポエジーや幸福感とでも言うべきものでもある。事件のニュースや物語の筋書きだけでは、これは単にものすごくやるせない酷い話、未来の見通しのまるでない辛い話でしかない。けれど、彼らのじっさいの生活のなかには、そういう括り方では捉えきれないようなたくさんの豊かさがあったはずで、そのなかには、きらきらとした美しい瞬間や、シンプルな生の歓びを感じさせるような瞬間といったものだって、たしかに無数に存在していたはずなのだということを、本作の映像は訴えているようにおもえる。「誰も知らない」かもしれないけれど、それはきっとそうだったはずなのだ。

『ある一生』/ローベルト・ゼーターラー

しんと静かな、あるひとりの男の人生の物語。文体も内容に見合った朴訥としてシンプルなもので、派手さはまったくないが、深く沁みいるようなところがある作品だった。

私生児として生まれたエッガーは、アルプスの農場主のもとに引き取られる。幼少時から労働力として酷使され、お仕置として鞭で打たれたために片足を引き摺るようになってしまうが、その肉体は頑強に成長していく。やがて農場を出たエッガーは、干し草小屋付きの小さな土地を借りる。山のロープウェイ工事の会社に就職し、ひたすらに肉体労働を続ける日々のなか、宿屋で働くマリーを愛するようになり、結ばれる。しかしそのわずか数年後、突然の雪崩によって、一夜にして妻と家を失ってしまう。第二次大戦時には東部戦線で捕虜となり、ロシアの収容所で8年間を過ごすことになる。それでも解放後は再び故郷に戻り、観光客向けの山歩きの案内人としてひとり孤独に暮らし、晩年を迎える…。

ほとんど不条理なくらいに過酷な人生だし、あっと驚くような展開や胸がすく逆転劇といったものもない。ただ、さまざまな形で訪れる試練に耐え、捨て鉢にならず、ひたすら愚直なまでに淡々と生き抜いていく男の姿を描いているのだ。舞台こそ20世紀ではあるものの、ひたすら故郷のアルプスの山に暮らし続けるエッガーはもはや山の精霊のようでもあり、その姿にはどこか神話的な美しさすら感じられる。

自己実現とか目標達成とかいった、現代の資本主義社会を駆動する諸々からはまったくかけ離れた、ある意味修行僧のようにストイックな、しかし本人的にはそんなつもりなどまったくなく、ごく自然に、そういうものとして生涯を生ききる、という人生。何かを得たり、誰かと優劣を比較したりしなくても、死の訪れるそのときまでただおもいきり生きるということ、人生というのはそれで十分だし、そういう生き方にもたしかに人の幸福というのはあり得るのだ、そんなことを感じさせてくれる一冊だった。

すべての人間と同じように、エッガーもまた、さまざまな希望や夢を胸に抱いて生きてきた。そのうちのいくらかは自分の手でかなえ、いくらかは天に与えられた。手が届かないままのものも多かったし、手が届いたと思った瞬間、再び奪われたものもあった。だが、エッガーはいまだに生きていた。そして、雪解けが始まるころ、小屋の前の朝霧に濡れた野原を歩き、あちこちに点在する平らな岩の上に寝転んで、背中に石の冷たさを、顔にはその年最初の暖かな陽光を感じるとき、エッガーは、自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかったと感じるのだった。(p.134)

『サマーフィーリング』

サマーフィーリング(字幕版)

サマーフィーリング(字幕版)

  • アンデルシュ・ダニエルセン・リー
Amazon

ザ・シネマメンバーズにて。数年ぶりに見直したけれど、やはり本当に好きな作品。ある夏の日、ベルリンに暮らす30歳のサシャは突然倒れ、そのままこの世を去ってしまう。あまりにも唐突な彼女の死は、恋人のローレンスにとっても、サシャの妹ゾエをはじめとする家族にとっても、そう簡単に受け止められるものではない。傷を抱えたもの同士としての彼らの心の交流と、時間の経過が少しずつその傷を癒やしていく様子が静かに描かれていく。

物語は3部構成になっており、第1部はベルリン、2部はパリ、3部はニューヨークを舞台にしている。各部のあいだには1年の間があり、つまり、本作は3年間の夏の季節だけを切り取った映画になっている。夏が来るたびにサシャのことをおもい出さずにはいられない、ということと、それでも時が経つにつれ、少しずつ前に進んでいけるようになっていく、という感覚とが、主人公たちの表情やふるまいから、ほんの微かに感じ取れるようになっている。

ストーリー性は非常に薄く、サシャの死→ローレンスとゾエそれぞれの回復、という以外には、展開らしい展開もない。あくまでも淡々と彼らの姿を映し出していくだけなのだ。彼らの台詞にしても、物語を駆動させるような印象深い台詞などというものはほとんどないし、もっと言ってしまうと、あまり内容らしい内容もない。ただ、それでも観客によくわかる(ように感じられる)のは、彼らが互いをおもい合い、いたわり合っている、ということだ。それははっきりとした台詞や明快なアクションで示されるものではないのだけれど、画面に映し出される彼らの視線やふるまいからは、たしかに互いへのおもいやりが感じられるのだ。

そんなしんとした優しさとともに、夏の日の光、もわっと生温い空気、黄緑色に透ける木の葉、きらきらと輝く海、といったサマーフィーリングを感じさせるものたちが、主人公たちをふんわりと包み込む、本作はそんな作品になっている。とにかく説明的なところがまったくなく、物語の展開や台詞の格好よさ、おもしろさで観客の感情を揺さぶってやろう、といった企みもまるで感じられないところが素晴らしい。静かな音楽と16mmフィルムで撮られたノルタルジックな映像も相まって、どの場面もどこかリリカルで、ずっと見ていたくなるような心地よさのある映画になっている。

『面白いとは何か? 面白く生きるには?』/森博嗣

以前のエントリに書いたような、10代の頃の気持ち――本と映画と音楽さえあれば幸せだし、こんなにもたのしいものたちが一生かかっても堀り尽くせないほどたくさん世のなかにはあって、しかもそれらについて自分にはどうやっても叶わないほど深くおもしろく語っている人がいる、ということに言い知れないほどのわくわく感を感じていた、そんな気持ち――というのは、30代後半にもなってしまったいまとなっては、到底感じることのできないものだ。10代の頃の感覚というのは、まだ多くのことを知らない、という状態によってこそ生じるものであって、年齢を重ね、それなりに多くの物事を知ってしまった(知ってしまったような気分に、ついなってしまう)おっさんには、そうした感覚など求めるべくもない。いまの俺で言えば、本にのめり込むようにして読むことなんて滅多にないし、映画だってAmazon Primeで1時間くらい見たらまあ続きは翌日でいいかという気持ちになってきてしまうし、音楽なんてSpotifyでながら聴きしかしていない。

10代の頃はどんなものにも簡単に夢中になれたけれど、いまはそうはならない。まあ当然といえば当然なのかもしれない。歳を取り、世のなかに慣れ、大人になる、ということはつまり、新しさ、新鮮さを感じにくくなり、物事に簡単に魅力を感じなくなる、ということでもあるからだ。だから大人がやるべきは、かつていくらでもその辺のものから感じられた面白さの代わりに、自分ならではの面白さ、自分なりの面白がり方といったものを見つけ、自分なりにそれを育てていく、ということになるだろう。

 *

本書で扱われているのは、そんな、自分なりの面白さとはどんなものであるのか、それを見つけて面白く生きていくにはどうしたらいいのか、といったテーマだ。そしてその結論はというと、アウトプットする面白さこそが本物だ、ということに尽きる。

アウトプットする「面白さ」はインプットする「面白さ」の何十倍も大きい。両方の経験がある人には、理屈抜きで納得できる感覚だろう。
「面白い」とは、本来アウトプットすることで感じられるものであり、それが本物の「面白さ」なのだ。「何十倍」と強調したが、それは、本質とダミィの差だといっても良い。 小説を読むことはインプットである。ただ文字を読むだけでは「面白く」はない。その物語に入る、いわゆる「感情移入」ができると、頭の中でイメージが作られる。これはアウトプットだ。感情が誘発されるのもアウトプットである。結局は、「面白さ」の本質はここにある。

大事なのは、自分でかんがえて作り出すこと、自己完結していることであって、他者によって提供されたものや、他者の目線が必要なものは、真に自分にとって「面白いこと」ではあり得ない、と森は主張する。極端な意見にもおもえるけれど、ここで重要なのは、人生の面白さに繋がるような本当の面白さとは、他者との間にあるものではなく、あくまでも自分ひとりで得られるものであるはずだ、ということだ。他者が関わってくると、途端にその面白さは他者に依存するものになってしまう。他者の評価や他者のやる気や、他者の能力や他者の思考によって面白さが左右されてしまう。そんなのは人生を支えるに足るような真の面白さとは言えないだろう、というわけだ。

まあこれは、いまの世のなかが共感による面白さに比重を置きすぎていることに対する警告というか苦言というか、そんな意味合いもあって少し強めに言っているようではあるのだけれど――だいたい、森自身が例として挙げている「小説を読むこと」だって、他者によって小説が提供されて初めてできることなのだし――それなりに納得できるところではある。本や文章を読むということにしたって、文字を読むことそれ自体が面白いというよりも、そこから様々な思考や感情が誘発されて、ああだこうだと自分なりにかんがえたり感じたりするところにこそ、面白みがあるものなのだ。

「面白さ」は、最初は小さい。しかし、育てることで大きくなる。「面白い」と思えるものを大事にして、磨きをかけることが、これまた「面白い」のである。
「面白さ」は、探しても、ずばり見つかるようなものではなく、自分で作るようなものである。どこかに落ちているのは「面白そうな」種でしかない。それを拾って、自分の畑にまいて世話をしよう。幾つか種を蒔いた方が良い。全部がものになるとはかぎらないからだ。

本当に自分が「面白い」ものというのは、自分でおもいついて自分で実行したもの、自分で作り出したものに限られる。既にどこかに存在しているものというのは、あくまでもヒントにしかならず、それを自分なりの形で育てていかなくてはならないのだが、そのプロセスそのものがまた「面白い」ものであるはずだ、と森は語っている。

ウィーン少年合唱団@東京オペラシティコンサートホール

6/17、東京オペラシティにて。「天使の歌声」でおなじみウィーン少年合唱団の、超絶ハイクオリティな歌声を堪能させてもらった。

今回来日していたのはハイドン組*1。20数名のメンバーは、10〜14歳の男子たちで、国籍も体格もさまざま。かなり堂々とした体格の子から、ものすごくひょろっとしてちっこい子もいる。なので、さすがに個々の声量の違いなんかは結構あるようだったけれど、とにかく全体としての音色の美しさや立体感、音程やリズムの安定感が素晴らしく、いつまでも聴いていたくなるような圧巻のパフォーマンスだった。

また、合唱のクオリティとは裏腹に、舞台上にはまあまあゆるい雰囲気もあったりして、そんなところはキュートでもあった。明らかに制服がうまく着れていない子や、ときおり欠伸をしたり鼻をこすったりしている子、ふたりで顔を見合わせてにやにやしている子たちなんかもいたりして、なんとものびのびとした自由な空気を感があって。今年で創立525周年だという合唱団のそんな雰囲気はちょっと意外でもあったけれど、音楽の素晴らしいクオリティと相まって、とてもよかった。そんな彼らをまとめ上げ、ピアノの弾き振りをするカペルマイスターのジミー・チャンも、どこか引率の先生のようなのんびりとした雰囲気を醸しつつも、でもピアノの音はとても明瞭で精密、まさにクリスプという感じで、格好よかった。

とにかくソプラノもアルトも美しすぎ、クオリティが高すぎて、年齢とか性別とかも関係なく、ただひとつの天上的な音楽として完成している感じが素晴らしかった。世俗にまみれ汚れきった自分には眩しすぎる、っていうくらい。もう全曲良かったのだけれど、とくに印象深かったのは、フォーメーションを組んでスキャットで歌われた"アイネ・クライネ・ナハトムジーク"(←創立525周年とK.525をかけているらしい)、インドの献身歌、"美しき青きドナウ"、アンコールの"ラデツキー行進曲"あたり。

曲目は以下のとおり。

モーツァルト:カンタータ《汝、宇宙の魂に》、アイネ・クライネ・ナハトムジーク
クープラン:歓喜せよ
ハイドン:アニマ・ノストラ
シューベルト:反抗
ロッシーニ:3つの聖歌より《愛》
ビーブル:アヴェ・マリア
シューベルト:鱒
オーストリア民謡:森のハンス
J. シュトラウスⅡ世:《ウィーンの森の物語》
ニュージーランドの労働歌(シー・シャンティ):ウェラーマン
イラディエル:ラ・パロマ
オードウェイ:家と母を夢見て、旅愁、送別
滝廉太郎:荒城の月
岡野貞一:ふるさと
ラヴランド:ユー・レイズ・ミー・アップ
インドの献身歌(バジャン):ラーマ卿よ、ラグーの子孫よ
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・フランセーズ《上機嫌》、ポルカ・シュネル《永遠に》
J. シュトラウスⅡ世:《美しく青きドナウ》
J. シュトラウスⅠ世:《ラデツキー行進曲》

*1:ウィーン少年合唱団には、全体で100名ほどのメンバーがいるが、シューベルト、ハイドン、モーツァルト、ブルックナーという合唱団ゆかりの作曲家名を冠した4グループに分かれて活動している。