オースターの2009年作。前の数作と同様に、死を前にした老年の男を主人公とした物語だ。ただ、彼の若き日の回想録がページの多くを占めているため、『写字室の旅』や『闇の中の男』のような陰鬱でどんよりした感じはさほど強くはない。その代わり、タイトルのとおり、全体像はどうなっているのか、要するにどういうことなのか、がいつまで経っても見えてこない、奇妙で不安を誘う物語になっている。作品を特徴づけているのは、オースターお得意のテクニック――入れ子構造、引用、作中作、真偽のはっきりとしないエピソードと仄めかし、真意がどうとでも取れるような語り――であり、これらによって小説は独特の曖昧さや不透明感、不穏さを感じさせるものになっている。
1967年の春、20歳のアダム・ウォーカーは、怪しげな大学教授ルドルフ・ボルンと出会い、ボルンの内にある怒りや暴力、闇と冷たさの志向に触れるなかで、自らの内にもそういった傾向が存在していることに気づいていく。やがてウォーカーは、自分では制御することのできない破滅願望のようなものに導かれるように行動するようになるのだが、若い日のその行いは、死を目前にした老人となった彼にとってもなお、もっとも大きな未解決事項として居座り続けることになる。
ウォーカーとボルンは、シンプルに対照的な存在、あるいは相似形を成すような存在、分身的な存在である、というわけではない。彼らの関係性はもっと曖昧で不明瞭なもの、単純な図式に整理することができないようなものだ。とはいえ、彼らが互いの内なる衝動を刺激し合った結果として、互いの人生が根本的に路線変更され、取り返しのつかない方向へと歩みを進めていくことになってしまった、というのは確かなことだと言えそうだ。
作品全体に通底しているのは、何もかもが未解決のまま終わっていくという感覚、そして、わかりやすい終結などといったものは存在しないという感覚だろう。ウォーカーにオースターの自伝的な要素がいくつも反映されていること等を鑑みるに、このあたりはオースター自身の感慨であるのかもしれない、という気がする。
ウォーカーの告白に僕は動揺し、胸に悲しみが満ちた。気の毒なアダム。あまりに自分に厳しすぎる。ボルンとの関係における自分の弱さを徹底的に蔑み、自分のチャチな野望と若き奮闘をとことん嫌悪し、自分が怪物を相手にしているのが見えなかったことを心底責めている。だが、ボルンのような人間がくり出す詭弁と邪悪の靄のなかで、二十歳の若者が現実を見失ったことを誰が責められよう?ひどく醜悪な何かが自分のなかにあることを、私はボルンに思い知らされた。だがアダムがいったいどんな間違いを犯したというのか?刺傷があった夜、彼は救急車を呼ぼうと電話をかけたではないか。それに、しばし怖気づきはしたものの、やがて警察に行ってすべて話したではないか。こうした状況で、それ以上できた人間がいるとは思えない。自分自身をウォーカーがどれだけ嫌悪しようと、それは彼が結末に採ったふるまいが原因だったとは考えられない。彼の心を乱したのは、終わりではなく始まりなのだ。誘惑されるがままに行動してしまったという事実。そのことについて彼は自分を生涯苛みつづけた。人生が終わりに近づいてきたいま、もう一度その過去に立ち返ってわが恥辱の物語を語らずにはいられないほど自分を苛んだ。(p.73-74)