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『遅読のすすめ』/山村修

立花隆の『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』や福田和也の『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』に代表される、速読・多読といったものに対して、ほとんどの人は(彼らのような職業上の必要性に駆られているのではないのだから)そういった読書法は必要ではないだろう、と主張する一冊。

たとえば立花の言う、「本を沢山読むために何より大切なのは、読む必要がない本の見きわめをなるべく早くつけて、読まないとなったら、その本は断固として読まないことである」といった主張に対し、山村は反対するわけではないが、どうしてもどこかに違和感を覚える、と言う。そして、その理由についてこう述べている。

必要があって本を読むとき、私はそれを読書とは思っていないのだ。それは「読む」というのではなくて、「調べる」というのではないか。あるいは「参照する」というのではないか。 たとえ一冊を読み、企画書なりレポートなりに役立てることがあっても、私にはそれをもって読書とする感覚がない。もちろん必要があってのことだから、拾い読みもするし、飛ばし読みもする。しかし、一括を拾い読みしたあと、私はそれを読書の冊数としてカウントなどしない。私だけではないだろう。世間一般ではそれを読書とみなさない。 まちがっていたら申し訳ないが、ひと月に最低百冊読むと福田和也がいうとき、その百冊には、仕事のために本の一部分を調べたり、参照したりするものまで、すべてカウントされていると思う。そんなものまで読書のうちに数えるか、ふつう。(p.45-46)
氏(←立花隆)の主張は明快で、よほどのヒマ人でないかぎり、「タイムコンシューミングな(時間ばかりくってしょうがない)本」は読むべきでないというのである。しかし私などにとっては、氏のいう「タイムコンシューミングな本」こそたいせつな本だ。 私には、自分の読みたい本で、なおかつタイムコンシューミングでない(速読できる)本というのは、どう考えてもただの一冊も思い浮かばない。どうやら私が読みたいと思うあらゆる本が「時間ばかりくう本」なのである。(p.63)
読書について、もっぱら物理的な大量消費をあおるような人たちの強迫的な文章が私はきらいである。(p.93)

立花や福田の言う「読む」といわゆる世間一般で言う「読む」とではそもそも基準が違うだろう、ということだ。これはまったくそのとおりで、立花/福田と山村とでは、そもそも読書とは何か、というかんがえ方も違えば、読書に求めるもの、期待するものだってぜんぜん違っているのだから仕方ない、というところではあるのだけれど、それでも文章を書きながらテンションが上がってきてイラついている感じが出ているのがおもしろい。

そういうわけで、本書は速読本にあてられて疲れてしまったりうんざりしてしまった人にぴったりの一冊だと言えるだろう。

社会に出ると、もはやしあわせな読書生活などというものはない。そもそも本を読めるにせよ、一日の全体からすれば、ごくわずかな時間のことである。本に中毒などしている暇はない。もしもそういうことへのあこがれがあるとすれば、それを断ち切ってからでないと生活人の日常がはじまらない。(p.162)

このあたりも、学生の頃から本好きだった人には身に染みるようにわかるだろう。自分としても、社会に出てから十数年というもの、「しあわせな読書生活」へのあこがれを胸の内にしまっておいたり、投げ捨ててみたり、いややっぱりあれは大事なものだったのかもとまた手を伸ばしてみたり…というのを何度となく繰り返しながら「生活人の日常」を送っているわけだけれど、山村の主張としては、上記のような前提があるとしてもなお読書が人間の生活に幸福をもたらすものとしてあり得るためには、やはり遅読がよいだろう、ということになる。