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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『面白いとは何か? 面白く生きるには?』/森博嗣

以前のエントリに書いたような、10代の頃の気持ち――本と映画と音楽さえあれば幸せだし、こんなにもたのしいものたちが一生かかっても堀り尽くせないほどたくさん世のなかにはあって、しかもそれらについて自分にはどうやっても叶わないほど深くおもしろく語っている人がいる、ということに言い知れないほどのわくわく感を感じていた、そんな気持ち――というのは、30代後半にもなってしまったいまとなっては、到底感じることのできないものだ。10代の頃の感覚というのは、まだ多くのことを知らない、という状態によってこそ生じるものであって、年齢を重ね、それなりに多くの物事を知ってしまった(知ってしまったような気分に、ついなってしまう)おっさんには、そうした感覚など求めるべくもない。いまの俺で言えば、本にのめり込むようにして読むことなんて滅多にないし、映画だってAmazon Primeで1時間くらい見たらまあ続きは翌日でいいかという気持ちになってきてしまうし、音楽なんてSpotifyでながら聴きしかしていない。

10代の頃はどんなものにも簡単に夢中になれたけれど、いまはそうはならない。まあ当然といえば当然なのかもしれない。歳を取り、世のなかに慣れ、大人になる、ということはつまり、新しさ、新鮮さを感じにくくなり、物事に簡単に魅力を感じなくなる、ということでもあるからだ。だから大人がやるべきは、かつていくらでもその辺のものから感じられた面白さの代わりに、自分ならではの面白さ、自分なりの面白がり方といったものを見つけ、自分なりにそれを育てていく、ということになるだろう。

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本書で扱われているのは、そんな、自分なりの面白さとはどんなものであるのか、それを見つけて面白く生きていくにはどうしたらいいのか、といったテーマだ。そしてその結論はというと、アウトプットする面白さこそが本物だ、ということに尽きる。

アウトプットする「面白さ」はインプットする「面白さ」の何十倍も大きい。両方の経験がある人には、理屈抜きで納得できる感覚だろう。
「面白い」とは、本来アウトプットすることで感じられるものであり、それが本物の「面白さ」なのだ。「何十倍」と強調したが、それは、本質とダミィの差だといっても良い。 小説を読むことはインプットである。ただ文字を読むだけでは「面白く」はない。その物語に入る、いわゆる「感情移入」ができると、頭の中でイメージが作られる。これはアウトプットだ。感情が誘発されるのもアウトプットである。結局は、「面白さ」の本質はここにある。

大事なのは、自分でかんがえて作り出すこと、自己完結していることであって、他者によって提供されたものや、他者の目線が必要なものは、真に自分にとって「面白いこと」ではあり得ない、と森は主張する。極端な意見にもおもえるけれど、ここで重要なのは、人生の面白さに繋がるような本当の面白さとは、他者との間にあるものではなく、あくまでも自分ひとりで得られるものであるはずだ、ということだ。他者が関わってくると、途端にその面白さは他者に依存するものになってしまう。他者の評価や他者のやる気や、他者の能力や他者の思考によって面白さが左右されてしまう。そんなのは人生を支えるに足るような真の面白さとは言えないだろう、というわけだ。

まあこれは、いまの世のなかが共感による面白さに比重を置きすぎていることに対する警告というか苦言というか、そんな意味合いもあって少し強めに言っているようではあるのだけれど――だいたい、森自身が例として挙げている「小説を読むこと」だって、他者によって小説が提供されて初めてできることなのだし――それなりに納得できるところではある。本や文章を読むということにしたって、文字を読むことそれ自体が面白いというよりも、そこから様々な思考や感情が誘発されて、ああだこうだと自分なりにかんがえたり感じたりするところにこそ、面白みがあるものなのだ。

「面白さ」は、最初は小さい。しかし、育てることで大きくなる。「面白い」と思えるものを大事にして、磨きをかけることが、これまた「面白い」のである。
「面白さ」は、探しても、ずばり見つかるようなものではなく、自分で作るようなものである。どこかに落ちているのは「面白そうな」種でしかない。それを拾って、自分の畑にまいて世話をしよう。幾つか種を蒔いた方が良い。全部がものになるとはかぎらないからだ。

本当に自分が「面白い」ものというのは、自分でおもいついて自分で実行したもの、自分で作り出したものに限られる。既にどこかに存在しているものというのは、あくまでもヒントにしかならず、それを自分なりの形で育てていかなくてはならないのだが、そのプロセスそのものがまた「面白い」ものであるはずだ、と森は語っている。