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本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『本の読める場所を求めて』/阿久津隆

"本の読める店"fuzkueの店主である著者が、文字通り「本を読むための場所」としてのカフェを作ろうと決意し、生み出し、それを運営していく上での思考の過程や、試行錯誤のようすについて書いている一冊。

阿久津はfuzkueの経営にあたって、かなり厳密に顧客を定義づけている。それは、「「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思って来てくださった方」と表現されており、そういう人以外については、丁重に、かつ周到にターゲットから除外し、店を「関係のない人にとっては魅力のない店」、「読書ができる場を求めている人以外にとって、はっきりと不便」な場所にしている。ドラッカーのいう『顧客の創造」を地で行っている感じだ。

本を読むのにベストな場所を見つけるのはなかなかに難しい…というのは、本好きならば誰しもそれなりに感じていることだろう。俺自身、著者と同じように、カフェや喫茶店、図書館、パブなんかをぐるぐると回って本読みすることもあったくらいなので(結果、電車のなかが一番集中しやすかったのだが)、ここで挙げられているfuzkueの環境というのは、なかなかよさそう!と感じられるものだった。

ただ、じっさいに利用をかんがえるとなると、やはり問題は経済的な部分で、コーヒー一杯で1,600円かかってしまうーー700円のコーヒーのみの注文だと、900円の席料が発生する。席料はオーダーするごとに安くなっていくので、飲み物一杯でもちょっと食事をしても、だいたい2,000円前後になる、という仕組みーーというのは、自分の感覚ではちょっと厳しい。それだったら、たとえ環境が悪くて数件の店をはしごすることになったとしても、ベローチェやドトールやエクセルシオールでいいわ…とおもってしまうのだ。あと、1,600円あったら、そのお金で本1冊買えるじゃん、とかかんがえたりもしてしまう。

もっとも、fuzkueはそういうリーズナブルで日々通い詰めるところというよりは、理想的な読書タイムを過ごすための少し特別感のある場所、という位置づけの店なのだろう。そして、店を少し特別な場所にすることで、本当にそんな場所を求めている人だけを惹き付けることに成功しているのだろう。俺のなかでは、読書というのはそういう特別イベント枠にはあまり入っておらず、あくまでも自分の日常の範囲内に留まっているものなので、かんがえ方としてはあまりマッチしていないのだけれど、でもまあ、一度行ってみたらやみつきになってしまうかもしれない…とはおもう。

僕たちには本を読むための場所が与えられていない。読むことはできるかもしれないが全面的な歓迎を明示している場所は、ほぼ与えられていない。これは読書という文化にとって、どうなんだろう。惜しいことに思えてならない。(p.144)
心置きなく、なんの気兼ねもなく、読書をすることに最適化された場所。読書をするという過ごし方にこそ向けられている場所。読書をする人こそが主役となる場所。
そういう場所があったほうが、ないよりも、絶対に、いい。
それは、そういう場所がほしくて仕方がない人間がつくったらいい。(p.146)

『理由のない場所』/イーユン・リー

作品概要・所感

イーユン・リーによる長編第3作。16歳で自殺した少年と、作家であるその母親との対話だけで構成されている小説だ。もっとも、少年はすでに死んでしまっているわけで、ふたりはじっさいに言葉を交わしているわけではない。あくまでも母親の想像による"対話"なのであって、交わされる言葉のすべては、彼女の内から生み出された、彼女自身の言葉なのだ。とはいえ、ふたりのやり取りはあくまでも普段通りのテンションを保っているようで、シニカルで反抗期真っ盛りの息子と、それに手こずる母親、のちょっとした言い争いや思い出話など、どこへ行き着くでもない会話が延々と続けられていく。

「理由のない場所」で、それでも書く

「訳者あとがき」によると、著者のリーは本作を、16歳の息子を自殺で亡くした数週間後に書き始めたのだという。つまり、この母親の立場というのはリーの立場そのままなのだ。そういう意味で、本作は、あまりにも大きな喪失に直面した作家が、自分なりに言葉を吐き出し、書いていくことで、なんとかその経験に対峙する術を探っていこうという、いかにも作家らしい闘いの軌跡だということもできるだろう。

対話のすべてが母親によって書かれているがゆえに、母子の対話はただひたすらに続いていくばかりで、ふたりが真に通じ合えたりだとか、新たな理解に到達できたりだとかいった、わかりやすい解決やカタルシスが訪れることはない。彼女の内にある、ああしていればよかったのか?こうしていれば息子は自殺しなかったのか?そもそもなぜ息子は自殺してしまったのか?…といった問いに対して答えが与えられることだって、もちろんあり得ない。母親にとって息子は、自分が命を与えたのにも関わらず、永遠に理解することのできない他者であり続けるのだし、この内的対話を続けることそれ自体が、そんな息子の他者性を際立たせていくようでもある。

ただ、たとえそうであったとしても、自身の内面深くに沈潜し、想像し、書くこと、そうしてフィクションを作り出し、フィクションのなかで生きること――たとえそこが「理由のない場所(Where Reasons End)」であったとしても――それこそが自分の成すべきことなのだ、と母親/リーはほとんど確信しているようだ。それこそが自分なりの息子との向き合い方なのであって、それ以外にはない、と。そんな作家の信念の強さによって、書かれるべくして書かれたのが本作だということになるのだろう。

親しい友人が言うには、これほど身を入れて年月をかぞえる動機は二つしかない。赤ん坊が誕生した後と、愛する者が亡くなった後だ。三ヶ月は永遠のように長く感じられる。でも、いまの次はいまで、その次もずっといまなら、一瞬のように短くも感じられる。だからその友人にはこう言わなければならない。生まれる場合と死ぬ場合では違いがある。新生児は一時間ごと、一日ごと、一週間ごとに成長するが、子供の死は一分たりと古びない。(p.176-177)
ママはフィクションを書くよね、とニコライが言った。
うん。
だったらどんな状況でも好きなように作り出せばいい。
フィクションはね、作り出すんじゃないの。ここで生きなければならないように、その中で生きなければならないの。
ここはママがいるところで、ぼくがいるところじゃない。ぼくはフィクションの中にいる。ぼくはいま、フィクションなんだ。
じゃああなたがいるところは、そこ。そこは私が生きるところでもある。(p.192)

『ギルガメシュ叙事詩』

古代オリエント最大の神話文学にして、世界最古の叙事詩とも言われる「ギルガメシュ叙事詩」のアッシリア語原文ーー粘土書板に楔形文字で刻まれたーーからの日本語訳。ところどころテキストが欠けてはいるものの、物語の展開はきちんと追えるようになっている。

物語の主人公は、メソポタミアはウルクの王、半神半人のギルガメシュ。暴虐な君主として知られていたギルガメシュだが、自分と同じような力をもつエンキドゥと邂逅することで、友情を得る。やがてふたりは杉の森に住み着くフンババを倒して悪を追い払ったり、また、女神イシュタルがギルガメシュに振られた腹いせに送り込んできた天の牛を退治したりする。だが、フンババと天の牛を殺した咎で、エンキドゥは神々によって死の宣告を受けることになってしまう。ギルガメシュは親友エンキドゥの死を看取った後、自らにも訪れるであろう死の恐怖にさいなまれ、永遠の命を求めて旅に出る。長い彷徨の果てに、彼はついに不死を得ることができないまま旅を終え、ウルクに城壁を建造することになる…!

紀元前2500年頃に生み出された人類最古の物語が、生と死を扱った、極めて根源的な「行きて還りし物語」であるというのは、納得感がある。やはり人間にとって、人間の死というのは永遠の最重要テーマなのだろう。不死を望まずにはいられない人間の業と、にも関わらずやはり人間は死すべき存在である他ない、という冷徹な認識とが、この物語の骨格を形作っている。

フンババ討伐に恐れをなすエンキドゥに対して、(まだ死を恐れることを知らない)ギルガメシュはこんな風に語っている。

「だれが、わが友よ、天〔上〕まで上ることができようか
 太陽のもとに永遠に〔生きるは〕神々のみ
 人間というものは、その(生きる)日数に限りがある
 彼らのなすことは、すべて風にすぎない
 おまえはここでさえ死を恐れている
 おまえの英雄たる力強さはどうしてしまったのだ
 私をお前より先に行かせてくれ
 お前の口に呼ばわせよ、『進め、恐れるな』と
 私が倒れれば、私は名をあげるのだ
 『ギルガメシュは恐ろしきフンババとの
 戦いに倒れたのだ』と
 わが家の子孫ののちのちまでも」(p.58)

「彼らのなすことは、すべて風にすぎない」というところが良い。ギルガメシュやエンキドゥのような英雄であったとしても、人間はすべてあくまでも限られた生を全うすることしかできず、彼らのなすことのすべては、吹き過ぎてゆく風のようなものでしかない。けれど、それが文学という器に収められることで、彼らの行為や思考が、彼らの喜びや苦しみや悲しみが、何千年の後世にまでも伝わっていくことがあるのだ。そして「子孫ののちのちまでも」、その物語に美しさを感じることができるのだ。これをロマンと言わずしてなんと言おうか、ってやつである。

『若い人のための10冊の本』/小林康夫

タイトルの通り、小林が10代の若い人に向けて10冊の本を紹介する、という一冊。それだけではものすごくありきたりで退屈な本――いわゆる教養ガイド本的な――になりそうなものだけれど、そこは小林、自身の若いころの読書体験を引きながら、本を読むとはどういうことなのか、つまり、ある本を見つけ、出会い、向き合い、かんがえるとはどういうことなのか、を解き明かしていくように語ってくれており、読みものとしてなかなかにおもしろいものになっている。

小林の主張のベースにあるのは、本というメディアへの信仰にも似た信頼と愛情であり、できるだけわかりやすい言葉でそれを次の世代に受け渡していきたい、という純粋な想いであると言っていいだろう。小林が「あとがき」で、自身の孫たちがもし将来この本を手にとったら…という気持ちで、彼らに語りかけるように書いた、と述べている通り、本書はまさにおじいちゃんの愛情たっぷりといった感じの一冊になっており、俺は読んでいてすっかりうれしくなってしまったのだった。

君が、人生のこの時期に、君自身の「10冊」をもつことができるなら、どんな本だっていい。それと出会い、それを読んだことが、君の人生にとって、ふしぎな意味をもたらしてくれたと後々思えるような本を君がみつけてくれればいいのです。(p.22)
人生において「出会う」ということは大事です。いや、人生においてほんとうに重要なことは、ただひとつ、それだけです。人に出会うこと、それに尽きる。そして、図書館は、相手は「幽霊たち」かもしれませんが、まぎれもなく人であり、まったく知らない人と出会う場所なのです。つまり、図書館は、「出会い」のエクササイズの場所なのですね。(p.54)

…という感じに小林の文体がいい感じなのに加えて、「10冊」のセレクトというのがまたなかなか素敵なのだ。以下にメモしておく。

  • 『幽霊たち』/ポール・オースター
  • 『パンセ』/パスカル
  • 『中原中也全集』/中原中也
  • 『ジャコメッティとともに』/矢内原伊作
  • 『夜と霧』/フランクル
  • 『ノルウェイの森』/村上春樹
  • 『音楽と社会』/ダニエル・バレンボイム、エドワード・サイード
  • 『ホーキング、未来を語る』/スティーヴン・ホーキング
  • 『ゲド戦記』/アーシュラ・K・ル=グウィン
  • 『檀流クッキング』/檀 一雄

俺自身、15歳か16歳のころに、学校の図書館に新潮文庫の新刊で入ってきた『幽霊たち』を手に取ったのが海外文学を読み始めるきっかけになったのだったのだし、そのころの自分自身の「10冊」には村上春樹もル=グウィンもばっちり入っていたこともあって、なんだか少し懐かしいような気分にもさせられてしまったのだった。そして、10代の頃の気持ち――本と映画と音楽さえあれば幸せだし、こんなにもたのしいものたちが一生かかっても堀り尽くせないほどたくさん世のなかにはあって、しかもそれらについて自分にはどうやっても叶わないほど深くおもしろく語っている人がいる、ということに言い知れないほどのわくわく感を感じていた、そんな気持ち――をずいぶんとひさしぶりにおもい出したりもしたのだった。

本を読むこと、世界と出会うこと、小林の言い方で言うなら、「人間であることを学ぶ」こと。本書はまさに、その愉しさを改めておもい出させてくれる一冊だった。若い人だけではなく、本好きのあらゆる人におすすめしたいとおもう。

本とは、まさにこの一生続く「人間であること」の学びのためのものなのです。いいですか、本から学ぶのは、知識なんかじゃない。そんなものどうでもいい。学ぶべきことは、ただひとつ「人間であること」、それをすでに「人間」である君が果てしなく学び続ける。それだけが人間にとって唯一のほんとうの「義務」なのです。(p.131)

『零度のエクリチュール』/ロラン・バルト

バルトの処女作。とにかくわかりづらい文章が多く、よく理解できたとは到底言えないのだけれど――それでも、大学生の頃にちくま学芸文庫版を読んだときよりかは幾分ましだったとおもう――簡単にノートを取っておくことにする。

エクリチュールとは何か

本書におけるバルトの主張は、ひとことでまとめてしまえば、「言語」(ラング)と「文体」(スティル)の間には、もうひとつの形式的実体、「エクリチュール」なるものがある、というものだと言えるだろう。

バルト曰く、「言語」とは、同時代の作家たちに共通する規則や慣習を含み、歴史的な背景を持つ、いわば作家の可能性を制限する否定性として機能するものである。また、「文体」とは、作家個人の身体性やその過去によって作り出された気質から生じるもので、これまた、自身で自由に変更することのできないものである。つまり、「言語」も「文体」も、それぞれ時代や生物学的な与件から自然に生まれてくるもの、選択する余地のない、作家にとって所与のもの、ということだ。人は、自由に語っているつもりでいても、「言語」、「文体」というある一定の規則と習慣とに従っているわけだ。

そんな「言語」と「文体」の間には、もうひとつの形式的実体、「エクリチュール」が存在している、とバルトは言う。「エクリチュール」とは、作家自身が主体的に選択することのできる表現形式、言葉づかい、書き方といったもののことだ。もちろんそれらは、すでに社会的に規定された言語の使用法であるわけで、時代や社会の影響や制約を受けるものではあるのだけれども――文学には文学の、政治には政治の、知識人には知識人のエクリチュールがある――そのなかでどのようにエクリチュールを選択していくか、というところにこそ、社会に参加(アンガージュ)する作家の倫理観が現れる、とバルトは述べている。

言語と文体は絶対的な力であるが、エクリチュールは歴史との連帯行為である。言語と文体は対象であるが、エクリチュールは機能である。すなわち、創造と社会とのあいだの関係であり、社会的な目的によって変化した文学言語である。人間としての意図によってとらえられ、そうして「歴史」の大いなる危機に結びつけられた形式である。(p.22)
エクリチュールは文学の問題提起の中心に位置しており、その問題提起はエクリチュールとともにしか始まらない。それゆえエクリチュールとは本質的に形式の倫理なのである。(P.23)

時代や社会の影響を受けながらも、どのように「文学」というものを捉え、どのように扱うのか、というその意識や思考に、作家が選択するエクリチュールは分かちがたく結び付けられている。だからこそ、そこには作家の責任と倫理が表出する、というわけだ。作品の内容というよりもむしろ、作品の形式やその「書き方」にこそ、作家の態度は現れるものだ、というのがバルトの主張だと言えるだろう。

零度のエクリチュール

とはいえ、作家がどんなに熟考して選び出したエクリチュールであっても、それは書かれた次の瞬間には、既存のもの、歴史に紐付けられるもの、それゆえに何らかの含みを持ったもの、になってしまう。エクリチュールとは、「最初は自由だが、結局は作家を「歴史」に縛りつける鎖である」し、「自分自身の轍をうがち、自分自身の規則をつくることになってしまう」ものだし、それゆえ、「革命的でありつづけるエクリチュールなどない」のだ。

なるほどわたしは、今日、しかじかのエクリチュールを選びとり、その行為によってわたしの自由を断言し、斬新なエクリチュールや伝統的なエクリチュールを望むことはできる。だがすこしずつ他人の言葉やわたし自身の言葉さえも囚われ人にならずには、もはやエクリチュールを持続的に展開させることはできなくなっている。先行するあらゆるエクリチュールや、わたし自身のエクリチュールの過去さえからもやって来る執拗な残像が、わたしの言葉における現在の声を覆ってしまう。いかなる書かれた痕跡も、化学元素のように沈殿してゆく。(p.25)

そこで、特定の視点を自然視するようなイデオロギーから「文学言語を解放」するためにバルトが夢想するのが、「さだめられた言語秩序への服従からまったく自由になった白いエクリチュール」、「零度のエクリチュール」である。

現用語からも厳密な意味での文学用語からもおなじく距離をおいた一種の基礎言語を作成して「文学」を乗り越えることが重要なのである。カミュの『異邦人』に始まったこの透明な言葉は、文体の理想的な不在に近い、不在の文体をなしとげている。それゆえエクリチュールの否定法のようなものとなり、言語の社会的あるいは神話的な性格は消え去って、形式は中性的で不活性な状態となっている。したがって思考は、自分の責任はすべて持ちつづけるが、自分のものではない歴史のなかで形式に付随している社会参加に飲み込まれてしまうことはない。(p.95)

「透明な言語」、「文体の理想的な不在」、「エクリチュールの否定法のようなもの」といった言葉でバルトが表現しようとしているのは、その時代の歴史的状況や社会的階級や規範、常套句や慣用的な言語使用といったものに縛られていない、ニュートラルなエクリチュール、といったもののことなのだろう。カミュの『異邦人』はそんな理想に近い作品として挙げられているわけだが、バルトは、同作品のどういった部分が理想的なのか、具体的な説明はしていない。おそらくは、それまでの文学作品と比較して、特定のイデオロギーや価値観、自然らしさ、文学的クリシェや紋切型から遊離している、従来的な文学とは異なる文学として成立している…というようなことなのだろう。

もっとも、そんな理想的なエクリチュールという存在も、あくまでも一時的なものでしかない、とバルトは続けている。

不幸にして、白いエクリチュールほど不実なものはない。最初に自由が見出されたその場所でこそ、自動装置的な行為が生み出される。言説がはじめにみせた新鮮さは、硬直した形式の網によってだんだんと締めつけられてゆく。(p.96)

白いエクリチュール、零度のエクリチュールとして、ある「書き方」が承認されてしまったが最期、それは新たな価値感、新たな規範となってしまう、ということだ。既存の自明性に対するどんな異議申し立ても、一度承認されてしまえば、それ自身が新たな既存の自明性となってしまう。すべてのエクリチュールは、その本質として無垢なままではいられない、というわけで、文学のユートピアは、そのまま文学の袋小路でもある…とバルトは述べている。