イーユン・リーによる長編第3作。16歳で自殺した少年と、作家であるその母親との対話だけで構成されている小説だ。もっとも、少年はすでに死んでしまっているわけで、ふたりはじっさいに言葉を交わしているわけではない。あくまでも母親の想像による"対話"なのであって、交わされる言葉のすべては、彼女の内から生み出された、彼女自身の言葉なのだ。とはいえ、ふたりのやり取りはあくまでも普段通りのテンションを保っているようで、シニカルで反抗期真っ盛りの息子と、それに手こずる母親、のちょっとした言い争いや思い出話など、どこへ行き着くでもない会話が延々と続けられていく。
「訳者あとがき」によると、著者のリーは本作を、16歳の息子を自殺で亡くした数週間後に書き始めたのだという。つまり、この母親の立場というのはリーの立場そのままなのだ。そういう意味で、本作は、あまりにも大きな喪失に直面した作家が、自分なりに言葉を吐き出し、書いていくことで、なんとかその経験に対峙する術を探っていこうという、いかにも作家らしい闘いの軌跡だということもできるだろう。
対話のすべてが母親によって書かれているがゆえに、母子の対話はただひたすらに続いていくばかりで、ふたりが真に通じ合えたりだとか、新たな理解に到達できたりだとかいった、わかりやすい解決やカタルシスが訪れることはない。彼女の内にある、ああしていればよかったのか?こうしていれば息子は自殺しなかったのか?そもそもなぜ息子は自殺してしまったのか?…といった問いに対して答えが与えられることだって、もちろんあり得ない。母親にとって息子は、自分が命を与えたのにも関わらず、永遠に理解することのできない他者であり続けるのだし、この内的対話を続けることそれ自体が、そんな息子の他者性を際立たせていくようでもある。
ただ、たとえそうであったとしても、自身の内面深くに沈潜し、想像し、書くこと、そうしてフィクションを作り出し、フィクションのなかで生きること――たとえそこが「理由のない場所」であったとしても――それこそが自分の成すべきことなのだ、と母親/リーはほとんど確信しているようだ。それこそが自分なりの息子との向き合い方なのであって、それ以外にはない、と。そんな作家の信念の強さによって、書かれるべくして書かれたのが本作だということになるのだろう。
親しい友人が言うには、これほど身を入れて年月をかぞえる動機は二つしかない。赤ん坊が誕生した後と、愛する者が亡くなった後だ。三ヶ月は永遠のように長く感じられる。でも、いまの次はいまで、その次もずっといまなら、一瞬のように短くも感じられる。だからその友人にはこう言わなければならない。生まれる場合と死ぬ場合では違いがある。新生児は一時間ごと、一日ごと、一週間ごとに成長するが、子供の死は一分たりと古びない。(p.176-177) ママはフィクションを書くよね、とニコライが言った。うん。
だったらどんな状況でも好きなように作り出せばいい。
フィクションはね、作り出すんじゃないの。ここで生きなければならないように、その中で生きなければならないの。
ここはママがいるところで、ぼくがいるところじゃない。ぼくはフィクションの中にいる。ぼくはいま、フィクションなんだ。
じゃああなたがいるところは、そこ。そこは私が生きるところでもある。(p.192)