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『零度のエクリチュール』/ロラン・バルト

零度のエクリチュール 新版

バルトの処女作。とにかくわかりづらい文章が多く、よく理解できたとは到底言えないのだけれど――それでも、大学生の頃にちくま学芸文庫版を読んだときよりかは幾分ましだったとおもう――簡単にノートを取っておくことにする。

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本書におけるバルトの主張は、ひとことでまとめてしまえば、「言語」(ラング)と「文体」(スティル)の間には、もうひとつの形式的実体、「エクリチュール」なるものがある、というものだと言えるだろう。

バルト曰く、「言語」とは、同時代の作家たちに共通する規則や慣習を含み、歴史的な背景を持つ、いわば作家の可能性を制限する否定性として機能するものである。また、「文体」とは、作家個人の身体性やその過去によって作り出された気質から生じるもので、これまた、自身で自由に変更することのできないものである。つまり、「言語」も「文体」も、それぞれ時代や生物学的な与件から自然に生まれてくるもの、選択する余地のない、作家にとって所与のもの、ということだ。人は、自由に語っているつもりでいても、「言語」、「文体」というある一定の規則と習慣とに従っているわけだ。

そんな「言語」と「文体」の間には、もうひとつの形式的実体、「エクリチュール」が存在している、とバルトは言う。「エクリチュール」とは、作家自身が主体的に選択することのできる表現形式、言葉づかい、書き方といったもののことだ。もちろんそれらは、すでに社会的に規定された言語の使用法であるわけで、時代や社会の影響や制約を受けるものではあるのだけれども――文学には文学の、政治には政治の、知識人には知識人のエクリチュールがある――そのなかでどのようにエクリチュールを選択していくか、というところにこそ、社会に参加(アンガージュ)する作家の倫理観が現れる、とバルトは述べている。

言語と文体は絶対的な力であるが、エクリチュールは歴史との連帯行為である。言語と文体は対象であるが、エクリチュールは機能である。すなわち、創造と社会とのあいだの関係であり、社会的な目的によって変化した文学言語である。人間としての意図によってとらえられ、そうして「歴史」の大いなる危機に結びつけられた形式である。(p.22)
エクリチュールは文学の問題提起の中心に位置しており、その問題提起はエクリチュールとともにしか始まらない。それゆえエクリチュールとは本質的に形式の倫理なのである。(P.23)

時代や社会の影響を受けながらも、どのように「文学」というものを捉え、どのように扱うのか、というその意識や思考に、作家が選択するエクリチュールは分かちがたく結び付けられている。だからこそ、そこには作家の責任と倫理が表出する、というわけだ。作品の内容というよりもむしろ、作品の形式やその「書き方」にこそ、作家の態度は現れるものだ、というのがバルトの主張だと言えるだろう。

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とはいえ、作家がどんなに熟考して選び出したエクリチュールであっても、それは書かれた次の瞬間には、既存のもの、歴史に紐付けられるもの、それゆえに何らかの含みを持ったもの、になってしまう。エクリチュールとは、「最初は自由だが、結局は作家を「歴史」に縛りつける鎖である」し、「自分自身の轍をうがち、自分自身の規則をつくることになってしまう」ものだし、それゆえ、「革命的でありつづけるエクリチュールなどない」のだ。

なるほどわたしは、今日、しかじかのエクリチュールを選びとり、その行為によってわたしの自由を断言し、斬新なエクリチュールや伝統的なエクリチュールを望むことはできる。だがすこしずつ他人の言葉やわたし自身の言葉さえも囚われ人にならずには、もはやエクリチュールを持続的に展開させることはできなくなっている。先行するあらゆるエクリチュールや、わたし自身のエクリチュールの過去さえからもやって来る執拗な残像が、わたしの言葉における現在の声を覆ってしまう。いかなる書かれた痕跡も、化学元素のように沈殿してゆく。(p.25)

そこで、特定の視点を自然視するようなイデオロギーから「文学言語を解放」するためにバルトが夢想するのが、「さだめられた言語秩序への服従からまったく自由になった白いエクリチュール」、「零度のエクリチュール」である。

現用語からも厳密な意味での文学用語からもおなじく距離をおいた一種の基礎言語を作成して「文学」を乗り越えることが重要なのである。カミュの『異邦人』に始まったこの透明な言葉は、文体の理想的な不在に近い、不在の文体をなしとげている。それゆえエクリチュールの否定法のようなものとなり、言語の社会的あるいは神話的な性格は消え去って、形式は中性的で不活性な状態となっている。したがって思考は、自分の責任はすべて持ちつづけるが、自分のものではない歴史のなかで形式に付随している社会参加に飲み込まれてしまうことはない。(p.95)

「透明な言語」、「文体の理想的な不在」、「エクリチュールの否定法のようなもの」といった言葉でバルトが表現しようとしているのは、その時代の歴史的状況や社会的階級や規範、常套句や慣用的な言語使用といったものに縛られていない、ニュートラルなエクリチュール、といったもののことなのだろう。カミュの『異邦人』はそんな理想に近い作品として挙げられているわけだが、バルトは、同作品のどういった部分が理想的なのか、具体的な説明はしていない。おそらくは、それまでの文学作品と比較して、特定のイデオロギーや価値観、自然らしさ、文学的クリシェや紋切型から遊離している、従来的な文学とは異なる文学として成立している…というようなことなのだろう。

もっとも、そんな理想的なエクリチュールという存在も、あくまでも一時的なものでしかない、とバルトは続けている。

不幸にして、白いエクリチュールほど不実なものはない。最初に自由が見出されたその場所でこそ、自動装置的な行為が生み出される。言説がはじめにみせた新鮮さは、硬直した形式の網によってだんだんと締めつけられてゆく。(p.96)

白いエクリチュール、零度のエクリチュールとして、ある「書き方」が承認されてしまったが最期、それは新たな価値感、新たな規範となってしまう、ということだ。既存の自明性に対するどんな異議申し立ても、一度承認されてしまえば、それ自身が新たな既存の自明性となってしまう。すべてのエクリチュールは、その本質として無垢なままではいられない、というわけで、文学のユートピアは、そのまま文学の袋小路でもある…とバルトは述べている。