- 作者: 小沼文彦
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1963
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ピョートル・イワーヌイッチとイワン・ペトローヴィッチなるふたりの男による、計9通の往復書簡からなる短編。ピョートル・イワーヌイッチはイワン・ペトローヴィッチに何か用事があるらしく、ぜひ近々直接会って話をしなくてはなりません、と手紙に書いて送るのだが、どういうわけかお互いすれ違うばかりで、まったく会うことができない。手紙のやり取りが繰り返されるうちに、"直接言及されることのない何らかの理由"によって、ふたりの文面はどんどん激高していくのだが…!
物語を読み進めていくうちに、どうやらふたりはカード賭博でイェヴゲーニイ・ニコラーイッチなる青年貴族から金を巻き上げてきたものの、その金の配分を巡って揉めているらしい、ということが明らかになってくる。そして、物語の最後では、じつはピョートルとイワンの両方とも、妻をイェヴゲーニイ・ニコラーイッチに寝取られていた、ということが露見する。よくわからない展開だが、まあ、それが本作のオチというわけだ。
そういうことで、ピョートルとイワン、ふたりの時間差でのかけ合いのおもしろさが今作の唯一のおもしろさであり、美点だということになる。ただ、ドストエフスキーの場合、"キャラクターたちの長広舌の帯びる熱が笑いに繋がる"、っていうのは、ほとんどすべての作品においてじゅうぶん過ぎるくらいに発揮されている特徴だ。だから、正直、短編のウリが笑いオンリーってことになると、いまいち弱いよなー、と感じてしまった。
まず第一に、小生が明瞭なわかりやすい表現を用いて、例の手紙で自分の立場を貴兄に説明し、同時にまた、主としてイェヴゲーニイ・ニコラーイッチに関するある種の表現と意図によって、貴兄がはたしてなにを言わんとするものであるかを、最初の書簡において貴兄にお尋ねしたところ、貴兄はだいたいにおいてこれを黙殺することに努め、いったん疑惑と不審の念によって小生の心を攪乱することに成功するや、落ちつきすましてこの問題から手を引かれたのであります。そしてその後、小生に対して人前では口にできぬような怪しからぬ行為を重ねたあげく、口をぬぐって、まことに悲しみに堪えないなどという言辞を弄するにいたりました。いったいこれをなんと名づけてよいものか、ご教示願いたいものです!その後、一分一秒の時間が小生にとっては貴重なものとなり、貴兄のあとを追ってこの広い首都の街を東奔西走せざるをえなくなったとき、貴兄は友情に名をかりて小生に書面を送って来られましたが、それはいずれも故意に要件のことは黙殺して、まったく関係のないことばかりが書いてあるというものでありました。ほかでもありません、とにもかくにも小生の尊敬するご令閨が病気になられたとか、赤ちゃんに大黄を服用させたとか、その際、歯が生えかけてきて痛みを訴えるとかのたぐいであります。こうしたことを貴兄は手紙のたびごとに小生に報告したものであります。この几帳面さは小生にとっては侮辱的であり、まことにやりきれないものでありました。(p.310)
こんなテンションの文面が延々続く(だけの)短編なのだ。ドストエフスキーには「ユーモア小説」は向いていなかったのでは…というのが、本作を読んだ俺の率直な感想だけれど、たとえば、こういう展開が長編のなかにうまく組み込まれていたりしたら、もっとたのしく(息休め的な感じで)読めたのかもな、とはおもった。
(ちなみに、「ピョートル・イワーヌイッチ」という名前は、"イワンの息子ピョートル"という意味で、「イワン・ペトローヴィッチ」は、"ピョートルの息子イワン"、という意味だ。なんとなくおもしろくはあるけれど、それが本作の全体にどう貢献しているか、ってことになると、うーん、どうなんだろう、よくわからない。)