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「プロハルチン氏」/フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

ドストエフスキー全集〈第1巻〉 (1963年)

ドストエフスキー全集〈第1巻〉 (1963年)

プロハルチン氏は、家族もいなければ友達もいない、貧しい下級官吏の老人である。貧しいといっても、役所勤めもそれなりに長いので、一日三食食べるには困らないはずなのだが、彼は周囲の人間がいぶかるくらいの超どケチで、なんともしみったれた生活を送っている。食事はふつうの半分しかとらないし、下着だってもう何年同じのを履いているんだかわかったものじゃない、おまけに「義理の姉に送金しなきゃならないから」なんてばればれの嘘までついたりして、とにかく節約に異様な執念を燃やし続けているのだ。だが、そんなある日、同じ下宿に住まう若い衆が、「どうやら役所が廃止になるらしい」との噂を流しはじめる。デマをすっかり信じこんでしまったプロハルチン氏は、職を失う恐怖にひとりで大騒動を演じた挙句、正気を失くしてしまうのだった…!

自分の妄想が自分のことを追い詰めてしまう、というのは『二重人格』のゴリャートキン氏と似ているけれど、物語の最後で、プロハルチン氏はじつは尋常でない額のへそくりを貯めこんでいたということが明らかになる。いったい、何が彼を駆り立て、金を貯めさせていたのだろうか?そして、それだけの金を手元に置きながら、なぜ彼は職を失うことに神経を病むほど怯えていたのだろうか??

プロハルチン氏は、自分でときどき、三度三度きちんと腹いっぱい食べていたらとても財布がもたないと力説していたほどの、それほどの貧乏人では絶対になかったからである。だからそれにもかかわらず彼は、ひたすらに自分の奇妙な気紛れな欲望を満足させるために、極端な節約精神と過度の用心深さから、恥や他人の悪口をものともしないで、まったく反対のことをしていたのである。(p.273)

「ひたすらに自分の奇妙な気紛れな欲望を満足させるため」というのが、ひとまず作中で与えられている回答だけれど、プロハルチン氏の本心についてはよくわからない。使うあてのない金を大量に貯めこむということ、ただそれだけが、彼の生きるよすがであり、目的だったのだろう…ベッドのなかに隠した大量のルーブリにおもいを巡らせるときにだけ、彼は安心と幸福とを感じることができたのだろう…などと、読者は推察してみることしかできない。

それにしてもどうして大の男がこれほどまでにおびえてしまったのだろうかと、奇異の感に打たれたのであった。いったいなにが原因でこんなに怯えてしまったのだろうか?顕職についていて、妻もいれば、子供もたくさんいるというのなら、まだ話がわからないということもない。なにかの事件で法廷へでも引っぱり出されたというのなら、それはそれで解せないこともない。しかし財産といえばトランク一つにドイツ製の錠前だけだという、まったく取るに足らない人間ではないか。二十年あまりも衝立てのかげで寝て暮らし、ろくに口もきかなければ、世間のことも知らず、浮き世の荒波に揉まれることもなく、ただ極端につつましい生活を送ってきた男ではないか。それがいま突然、誰かのつまらない冗談を真に受けて、すっかり頭が狂ってしまい、急にこの世で生きていくことがつらくなったなどと、愚にもつかないことでくよくよしはじめるとは……。誰にだってこの世はつらいものだということを、この男は考えてもみなかったのだ!(p.293)

…正直言うと、本作は短編ということもあって、ドストエフスキーの作品のなかでは明らかに平均点以下の一作ということになるだろうとおもう。プロハルチン氏の姿を描く筆致はゴーゴリを意識したようなコミカルなタイプなのに、ドストエフスキーはゴーゴリのように登場人物を突き放してしまうことができないものだから、内容と形式とで齟齬が生じてしまい、どうにも方向性のはっきりしない、ぼやっとした作品になってしまっているのだ。おそらく、ゴーゴリ的な書き方をするには、彼は主人公たちに共感を抱き過ぎていたのだろう。

まあとにかく、ドストエフスキーって人は、まずはこういう異様な性癖や歪んだ性格の持ち主、病的な人間をこそ描こうとした作家だった、ってことを改めて教えてくれるような一作だった。そういった歪みや偏向といったものが人間のなかから消えてしまわない限り、ドストエフスキーの作品はいつまでもおもしろく読めるはずだ。